【平成の記憶・野球編】野茂英雄からイチローへと渡った一個のサインボール
平成がまもなく終了する。1989年からスタートした平成の時代の日米の野球界を語るとき、特筆すべきは野球界を日米の野球界と表するほどメジャーリーグが夢の世界ではなくなったことだろう。1995年に野茂英雄が切り開いて以降、今季の菊池雄星まで海を渡ってメジャーでプレーした日本人は延べ58人。新人王は、その野茂、佐々木主浩、イチロー、大谷翔平の4人が獲得している。 この3月に日本での公式戦で記憶に刻まれる“引退試合”をしたイチローの軌跡が鮮明だが、すべての道筋を開いたのは“トルネード”野茂の功績ではなかったか。 デビュー戦は1995年5月2日だった。忘れられないのは、デビュー前夜の野茂の真っ白なお尻である。ストの影響で開幕は3週間遅れ4月25日にずれこんだ。ドジャースと契約した野茂のメジャー初先発は、敵地でのサンフランシスコ・ジャイアンツ戦だった。キャンドルスティックパークに日本の取材陣が殺到した。前日のロッカー。テレビのカメラクルーを含めた相当の数の日本の報道陣が、野茂のコメントを取ろうと狭いロッカーの中に押しかけた。当時は、まだ今のような取材ルールが整備されておらず、しかも、野茂とメディアの関係も良好ではなかった。野茂は他のチームメイトに迷惑がかかることを気にしていた。 「もういい加減にして欲しい」 着替え中にさえ、ずっとテレビカメラとマイクを向けられた野茂は、なんとパンツを脱いで“お尻”を出したのである。 「これならさすがに映せないでしょう」 確かに放送禁止。おそらく、どこかの局の倉庫には、その映像は残っているのかもしれない。憤慨する野茂に近寄って「コメント取りたいのはわかるが、このやり方はまずいよな」と声をかけたら「いやいや。あなたと、そもそもこんな会話していることがまずいんですよ」と、むッとした表情で筆者との会話を遮った。 騒ぎを知ったドジャースのラソーダ監督が、監督室から、のこのこと出てきて割り込んできた。 「コメントが欲しいならオレがいくらでも何時間でも話してやる。野茂にまとわりつくことはやめろ!出ていけ!」 怒鳴った。それは凄い迫力だった。「オレの腕を切ったらドジャーブルーの血が流れる」との名言を発した血の気の多い名将である。ラソーダ監督の仲裁で報道陣は、すごすごと退散。 それは嵐の予感がするデビュー前夜だった。