【平成の記憶・野球編】野茂英雄からイチローへと渡った一個のサインボール
筆者がオリックスでプレーしていたイチローと親しかったベテラン記者から頼まれたのである。 「イチローが野茂のサインボール欲しいって言っているんや。もらってきてくれへんか」 メジャーの取材証には「サイン行為を禁じる」と書いてある。アメリカでは、野球カードが盛んに売買され、選手のサインの売買もビジネスとして成り立っていたため、サインを取得しやすい環境にあるジャーナリストに、そういう行為を禁じていたのだ。 それを承知で試合前のロッカーに一人でいた野茂に話しかけた。 「イチローから記者を通じて野茂のサインを頼まれたんや。ロッカーでのサイン禁止はわかっているけど、もらえるかな?」 野茂はニコっと笑った。 「サイン禁止。知らなかったことにしといて下さいよ」 ドジャースタジアムのスーペリアショップで買った公式ボールにアメリカらしくボールペンで書いてもらった。それを大事にクリアケースに収めて忘れないようにトランクの片隅に入れておいた。当時は、約2か月のペースで日本を往復していた。もらったサインは約2か月遅れでイチローの手元に渡った。前年にプロ野球記録となる210本安打を記録していたイチローは、この年、首位打者、打点王、盗塁王、最多安打、最高出塁率の“5冠”を制覇。「がんばろう KOBE」を合言葉にリーグ制覇を果たし、阪神淡路大震災からの復興を勇気づける存在になっていた。 イチローのプロ初本塁打は野茂から打ったものだった。海を渡った好敵手のサインをイチローは、どんな思いで求めたのかわからない。だが、1999年オフにメジャー移籍を要望。一度は球団に拒否され1年後にポスティングで移籍したイチローの心にメジャーへの憧れが、この頃から芽生えていたのは間違ない。イチローがメジャーで金字塔を残すことになった原点には、やはり野茂の姿があったのだ。 そして2人はメジャーでも対戦、8年間でイチローの12打数4安打という結果が残った。2人の最後の対決は2008年4月15日のセーフコフィールド。カンザスシティ・ロイヤルズでプレーしていた野茂は、4-4で迎えた4回無死一塁から中継ぎ登板し、連打を浴びて4-5とされ、なお無死一、二塁の場面でマリナーズの1番イチローをボールになるフォークで三振に打ち取った。野茂は、この5日後に戦力外となり、この年を限りにユニホームを脱いだ。イチローの引退は、それから11年後。イチローは、今、あのサインボールをどこにしまっているのだろう。東京ドームホテルで行われた深夜の引退会見で、イチローに聞いてみてもよかったのかもしれない。 (文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)