現役時代には「悪童」 偏差値70名門からプロへ…左膝に手を「イライラになる原因」【インタビュー】
川崎フロンターレOB森勇介氏が振り返る現役時代
かつて川崎フロンターレに6シーズン在籍し、主にサイドバックとして活躍した森勇介は今、アカデミーコーチとして川崎U-15生田を指導する日々を送る。現役時代、ラフプレーの多さから「悪童」との呼び名も。2018年に現役引退を発表し、プロ生活に幕を閉じた。サッカー王国清水で育ち、プロ入りした過程にはどんな出来事があったのか、改めてその過程を振り返ってもらった。(取材・文=江藤高志/全3回の1回目) 【実際の写真】「スラムダンクのゴリみたい」 メッシ担当の美容師が散髪…内田篤人氏も爆笑の川崎DF“イメチェン姿” ◇ ◇ ◇ 現役時代のイメージが強い選手なだけに、指導者として結果を残しつつあると伝え聞いて興味が湧いた。「一緒ですよ、やってることは」。そううそぶく森の人生を左右したのが、サッカーが根付いていた静岡県の清水生まれだったということ。サッカーを選ぶのは自然な流れだったのだという。 「清水だから。野球とかより、みんなサッカーをやっていたから。普通の少年団で始めて昔は清水FCという選抜チームがあって、小3で試験を受けて合格して6年まで行った感じです」 その後、清水エスパルスのジュニアユースのセレクションに合格。ユースには上がらず進学することにしたという。 「その当時、プロを目指すという感じでもなかったですし、Jクラブのユースもそんなに盛んじゃなかったですし、あとはプロになれるとも思ってなかったので。親からも、大学に行けるように、しっかり勉強して進学校に行ったほうがいいんじゃない? という感じで、それで勉強もサッカーもってなったら、地元だったら清水東かなと思って」 その清水東高校の偏差値は68から70だったとのことで、まさに文武両道の高校進学だった。森は高校の3年間でサッカーに打ち込み「勉強はほぼ下のほうでしたよ」と話すが、「推薦がないので筆記試験で」合格した東京農業大学への進学が決定。サッカーを続けることになっていた。そんな森にヴェルディ川崎(当時)からのオファーが届いた。 「たまたま清水商業高校(現・清水桜が丘高校)で指導していた李国秀さんが、ヴェルディの総監督になるタイミングで見つけてくれたらしくて、声をかけてもらいました。普通にびっくりしました」 森は1999年に加入したV川崎を皮切りにベガルタ仙台、京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)でのプレーを経験。そして2005年に川崎フロンターレに加入することに。当時から気性の荒さは知られていたが「ダメなんですけど」と前置きしつつ「やられたらやり返す。やられた時に黙ってはいられない。そんな感じでしたね」と回想。自分1人ではなく、チームメイトが削られても、闘志を燃やす。そんなタイプだった。 「変な奴も1人ぐらいいてもいいんじゃないかなと。全員真面目よりも」とも話す森を取材していた川崎時代に印象的な出来事があった。勝てなかった等々力での試合後。報道陣からの囲み取材が終わったあと、個別に話を聞いていた時に「こんなんじゃダメだ。こんなんじゃ優勝できない」とキツめの口調で悔しさを吐露した。 「そのこと自体は覚えてないですけど、正直」と断りつつ、森が口にしたのは優勝への強い思いだった。 「小学校、中学校年代は全国優勝もありましたけど、高校では全国に縁がなかったですし、プロの世界でも京都の時は天皇杯で優勝しましたけど、結局メンバーにも入ってなかったですし。自分のキャリアなんか別にそんな大したことなかったんですが、なんかそうやって優勝争いできる舞台に立てているのに、良い条件も揃っているのに、そこを目指さないのはありえないので」