哲学者が語る「幸せな老後を送っている人」に共通する3つの態度
日本人の平均寿命は男女ともに伸び続けており、何十年と続く長い老後をどう生きるか、その方法を模索している方は多いでしょう。幸福で穏やかな老後を実現させる術とはどんなものでしょうか? 本稿では、そもそも「幸福」とは何か、そして自分のため、周囲のためにどう生きるべきか、哲学者の岸見一郎さんが語ります。 ※本稿は、岸見一郎著『老いる勇気』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
毎日を機嫌よく生きる
幸福でありたいと思い、その術や生き方の指針を求めるならば、まず「幸福とは何か」ということを考えることから始める必要があります。 人生とは何か、人間にとって幸福とは何か──。これは古代ギリシア以来の哲学の中心テーマであり、永遠のテーマでもあります。生きている限り向き合い続けなければならない問いであり、その問いに答えることは容易ではありません。 しかし、だからといって人間が幸福について、まったく何も知らないかというと、そうではありません。知らないものを、知ろうとするはずはないからです。 「自分は今、不幸だ」と思っている人も、幸福な瞬間を経験したことがあるからこそ、そう思うのです。幸福を経験していても、それが幸福であることに気づかずにいるのかもしれません。 幸福は空気のようなものです。空気があることを普段は意識することがないように、幸福であるのにそのことに気づかないのです。 三木清が、幸福は「存在」に関わるといっていることは先に見ました。人は幸福に「なる」のではなく、幸福で「ある」のです。そのことに気づくことが幸福になるということです。 三木清は、「幸福は力である」といっています。それは単に内面的なものではなく、真の幸福は、鳥がさえずり歌うように「おのずから外に現われて他の人を幸福にする」といいます。他者に気づかれない"内に秘めた幸福"や、一人だけが幸福であるということはなく、本当の幸福は、周囲に伝染して、他の人を幸せにする力を持っているということです。 幸福がどのような形で外に現れるのかということについて、三木は「機嫌がよいこと」をその筆頭に挙げています。弾けるように上機嫌であるというよりも、穏やかで気分が安定していることをいっているのだと思います。 朝から不機嫌で恐い顔をしている人は、その人自身がその日をつまらなくしているばかりか、腫れ物に触るように接しなければならない周りの人の気分をも悪くします。 生きていれば、時には嫌なこともあるでしょう。しかし、そのことに心を奪われ、不機嫌を露にしても、事態が改善されることはありません。幸せな老年を望むのであれば、まずは毎日を機嫌よく迎え、機嫌よく過ごすことです。 幸福は、「丁寧である」「親切である」という形でも現れると三木は書いています。誰かに何か頼まれた時、いつも丁寧に対応しているでしょうか。手紙を書く時は丁寧に言葉を選び、気持ちを込めて筆を運んでいるでしょうか。 忙しかったり、気になることがあったり、いらいらしていると、おざなりな対応しかできなくなります。「ちょっと手を貸して」と声をかけられても、面倒に思い、「ちょっと待って」「あとで」と応えているような時は、態度も口調もぶっきらぼうになっているものです。 差し迫って忙しい、あるいは困憊しきっているのでなければ、自分の時間を少し譲るくらいの気持ちで、求められたことに対して丁寧に対応する努力をしてもいいのではないかと思います。 他者から援助を求められた時、可能な限り力になるというのは「親切である」ことにつながります。もちろん、すべての求めに応えられるわけではありませんが、力になろうとすること、なりたいと考えることは大事です。誰かの力になることで感じられる幸福は、援助を受けた側の人にも伝わります。 ここで重要なのは"援助を求められた時に"という条件です。他者が助けを必要としているのではないかと思った時に、「何かお手伝いしましょうか」「できることがあったらいってください」と声をかけるのは親切ですが、「きっとこうしてほしいはず」と、勝手な思い込みで動くと嫌がられます。