18歳で体重90Kg超の歌手ビリー・ホリデイを発掘した名プロデューサーとは?
ジャズ評論家の青木和富さんのコラム第5夜は、「ジャズの発展に陰に、名プロデューサーあり」というお話です。女性シンガーのビリー・ホリデイを発掘し、のちにはロック・スターのデビューにも関わることも。ジャズを原点に幅広く音楽、レコードプロデュースを手掛けた、評論家といえば、そうあの人しかいません。※【連載】青木和富の「今夜はJAZZになれ!」は、毎週土曜日更新予定です。
将来、弁護士を嘱望されたお坊ちゃまが黒人音楽に傾倒 名プロデューサーに
1910年12月、16人の使用人が働いていた8階建てのマンハッタンの私邸で、一人の男の子が生まれた。父は弁護士、母は鉄道王バンダービルド家の娘。当然将来を嘱望され弁護士になることは決まったようなものだが、そうはならなかった。大好きな音楽の世界に身を投じたのである。しかもその音楽は、黒人音楽というのだから、周囲からかなりの変人と見られていただろう。 しかし、これはあながち変なことではないのかもしれない。こういう事実もある。このお坊ちゃんはレコードを聴きまくり、そして、密かにライブにまで足しげく通うマニアだったが、当時、デューク・エリントン楽団が根城にしていたハーレムのコットン・クラブは、実は白人しか入れない高級クラブであった。従業人は皆黒人で、エリントンは、黒人のイメージをかきたてるジャングル・サウンドを生み出し、踊り子もすらっとした10代の美しい娘たちを集め、さながらエキゾチックな黒人文化を魅惑的に見せる観光施設のようなものだったのかもしれない。そして、それがなかなか繁盛していたのである。 しかし、今回の主人公、ジョン・ハモンド・ジュニア(ジョン・ヘンリー・ハモンド2世、1910ー1987)は、このコットン・クラブを、雰囲気が悪く、しかも料金が高いとあまり気に入ってはなかったようだ。ハーレムには他にもクラブが多かったし、小さな店でライブを楽しめる店もたくさんあった。少年はそんな店を渡り歩き、気が付くと白人は彼だけという店も多かったが、店はそんな彼を歓迎したそうだ。禁酒法の時代で、むろん、不法の酒も用意されてはいたが、オーダーするのは決まってレモネード。そんなときある店で素晴らしい歌手と巡り会った。 「今月は、本格的な掘り出し物を紹介しよう。18歳に過ぎないけど、体重が200ポンド以上あって、信じられないほど美しく、そして歌がうまい」 これが不世出のシンガー、ビリー・ホリデイ(1915-1959)が最初に活字で紹介された記事である。1933年4月のイギリス「メロディー・メイカー」誌で、書いたのは当時22歳のハモンドである。ハモンドは、この英国の音楽誌に依頼され、毎月黒人音楽の記事を寄稿していたが、これがハモンドの本職ではない。ビリーとのつながりは、さらに続き、この年の秋にビリーの初レコーディングが行われたが、これもハモンドの企てだったのだ。