紫式部と夫・宣孝の新婚早々の痴話喧嘩とは? 時代考証が解説!
個人が紙を購入するには
越前の和紙が取りあげられていたが、当時から越前は和紙の名産地であった。ただし、現在のものと同じようなものであったかどうかは定かではない。 当時、紙は非常に貴重で高価であった。律令制では製紙は図書寮(ずしょりょう)の所管であったが、平安時代になると、『延喜式(えんぎしき)』によれば中男作物(ちゅうなんさくもつ、中央官司や封主の必要とする物品を八歳以上二十一歳以下の中男の雑徭〈ぞうよう〉によって調達して貢進するもの)として一人が紙四十張を官府に輸する国が四十一国に達した一方、図書寮特設の製紙場である紙屋院(かみやいん)でも、年二万枚の上質紙(紙屋紙〈かみやがみ〉)を造って内蔵寮(くらりょう)に納め、諸官司に分配した。 ただし、これらはあくまで、諸官司の用途に用いたものである。個人が購入するとなると、東西の市で買えばいいかというと、そうはいかなかった。『延喜式』では、東市(ひがしのいち)五十一、西市(にしのいち)三十三の廛(てん、店)が列挙されているが、筆廛・墨廛はあるものの、紙を扱う廛はなかったのである。都人が個人で紙を購入することは想定していなかったのであろう。 いずれにしても当時の紙は高価で、しかも誰でも手に入るものではなかったことは明らかである。紙屋院によほど顔の利く人物か、地方から紙を貢進される有力な人物に限られたはずである。『延喜式』では中男作物として、越前からも紙を貢進することが規定されているが、為時が受領(ずりょう)の時代に大量の紙を私物化できたとも思えない。 紙が高価で貴重であった当時、いったい中級官人の寡婦(かふ)にして(ドラマではまだ宣孝は死んでいないが)無官の貧乏学者である為時(同じくまだ越前守の任にあるが)の女である紫式部に、『源氏物語』を書くほどの料紙が入手し得たものであろうか。下書き用には為時の使い古しの反故紙の紙背(しはい)を使用したにしても、まさか清書用にはそうはいくまい。為時にしても、大学(だいがく)の学生(がくしょう)であった時には紙も融通してもらえたであろうが、無官となった時代には、どうやって紙を調達していたのであろうか。 こういう状況から、後の話になるが、紫式部はいずれかから大量の料紙を提供され、そこに『源氏物語』を書き記すことを依頼されたと考える方が自然であろう。そして依頼主として可能性がもっとも高いのは、道長の他にはあるまい(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。