紫式部と夫・宣孝の新婚早々の痴話喧嘩とは? 時代考証が解説!
道長の辞表と一条天皇
この頃、道長はにわかに腰病を発し、三月三日に出家の意を奏した。一条は、「病は邪気(じゃき)(物怪(もののけ))の行なったもの」として、これを許さず、「外戚の叔父で、朝廷の重臣として、天下を治め、朕の身を導く事は、現在、丞相(道長)以外には誰がおろうか。今、丞相の病を聞き、歎くことは限り無い」という恩詔(おんしょう)を伝えた(『権記』)。 ただし、一条は道長に、「道心が堅く、必ず出家の志を遂げるのならば、病が癒えてから心閑(しず)かに出家してはどうか」「本意(ほい)を遂げるについては、何事が有ろうか。よく思慮を廻らし、重ねて申請せよ。その時、あれこれ命じようと思う」とも言っている(『権記』)。道長が回復後に出家を申し出たとしたら、一条はそれを許して、次の執政者として顕光または伊周を任命する可能性もあったことになる。 三月十二日、道長はまた辞表を奏上した。これに対する勅答は、大臣の辞任は許さず、文書(もんじょ)の内覧と近衛随身を停めるというものであった(『権記』)。この時の道長の辞表(『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』)に、 ---------- 臣(道長)は、声望が浅薄であって、才能はいい加減である。ひたすら母后(詮子)の兄弟であるというので、序列を超えて昇進した。また、父祖の余慶(よけい)によって、徳もないのに登用された。……二兄(道隆・道兼)は、重きを載せて早世した。 ---------- とあるのは、道長の偽らざる本音であろう。このまま道長が、長女の入内や長男の元服(げんぷく)より以前に、死去したり出家したりしていれば、まさに一代限りの中継ぎ政権に終わったはずである。この年、彰子は数えで十一歳、頼通はわずか七歳であった。 なお、この時に停止された道長の内覧が復活されたという史料は存在しない。長保元年(九九九)三月十六日の東三条院行幸の際に道長に随身を元のごとく賜うという記事が見えるが(『日本紀略』『御堂関白記』)、あるいはこの時に内覧も復活されたのであろうか。