紫式部と夫・宣孝の新婚早々の痴話喧嘩とは? 時代考証が解説!
『小右記』の記事はいかに書かれたか
さて、私が注目したのは、実資が間明(まあ)き(暦の行と暦の行の間)三行の具注暦(ぐちゅうれき)に日記を記録していたことである。『小右記』には、「暦記(れきき)」や「暦裏(れきうら)」という記述があることから、もともとは具注暦に記していたことは確実であるが、道長のように間明き二行の具注暦は作れなかったであろうから、あれだけの膨大な量の記事を記録するためには、毎日、具注暦を切っては、間に紙を貼り継ぎ、その紙に記事を記すしかなかったのではなかろうか。 そして、特に独立した文書(もんじょ)や書状、また儀式の次第を記したメモ(消息、懐紙(かいし)、笏紙(しゃくし)、書冊(しょさつ)、草子(そうし)など)が手許にある場合は、それを日付の行と日付の行の間に貼り継いだり、時には裏返しにして貼り継ぎ(裏書〈うらがき〉としたわけである)、その紙背(しはい、つまり暦の面)に記事を記したりしたのであろう。 懐平(かねひら)や公任(きんとう)、資平(すけひら)や資房(すけふさ)、また頼通から届いた書状(主に儀式や政務に関するもの)を貼り継いだ場合もあったものと思われる(倉本一宏『摂関期古記録の研究』所収予定)。
キサキとして期待される彰子
26話では、彰子の着裳と入内の準備が描かれる。病の中でも道長は着々と権力基盤の構築に手を打っていたのである。 長徳四年八月十四日、行成に自分の辞表を奏上させた際に、何事かの「秘事」を一条天皇に奏させた。一条は辞表を却下し、「秘事」に答えた。行成はその際、「温樹(おんじゅ)を語らず」という言葉を記している。これは、『漢書(かんじょ)』孔夫(こうふう)伝や『蒙求(もうぎゅう)』に見える語で、「朝廷内のことをみだりに口にしないこと」を指す。十一歳に達した彰子の入内に関わることと考えるのが穏当であろう。ちなみに行成は、この後に詮子の許を訪れ、翌十五日に、一条の勅答を道長に告げている(『権記』)。 道長の長女である彰子は、長保元年(九九九)二月九日、著裳(もぎ)の式を迎えた。いまだ数えで十二歳ながら、これで大人ということになったわけである。詮子から装束が届いているのは、国母(こくも)が道長の女をキサキとして期待していることを示すものであろう。香壺(こうごの)筥(はこ)を贈った定子の心情は、いかなるものだったことか。 十一日、勅使(ちょくし)が訪れ、彰子を従三位に叙すという一条の仰せを伝えた(『御堂関白記』)。これは、正五位下の元子(がんし)や義子(ぎし)よりはるかに優越するものであり、一条や、むしろ詮子の、彰子入内に対する期待がうかがえる。