紫式部と夫・宣孝の新婚早々の痴話喧嘩とは? 時代考証が解説!
紫式部の手紙を他人に見せた宣孝
さて、長徳四年の冬に宣孝と結婚した紫式部であったが、翌長保元年正月十日頃には、さっそく痴話喧嘩(ちわげんか)の歌を残している。紫式部の性格の強さを示すものでもあろう。 それは、宣孝が紫式部の送った手紙を他の人に見せたと聞いたので、今までの自分の出した手紙をすべて集めて返さなければ返事は書かないと、使者に(手紙ではなく)口上(こうじょう)で言わせたところ、宣孝が、すべて返しますと言って、これでは絶交だねとひどく怨(うら)んでいたというものである。宣孝としてみれば、文才豊かな(自分よりは)若い新妻の歌を見せびらかして自慢したかっただけかもしれないが、そんなことが女性に通用するはずがない。 ---------- 32 閉ぢたりし 上の薄(うすら)氷(ひ) 解けながら さは絶えねとや 山の下水 (氷に閉ざされていた谷川の薄氷が春になって解けるように、折角うち解けましたのに、これでは、山川の流れも絶えるようにあなたとの仲が切れればよいとお考えなのですか) ---------- まったく、夫婦喧嘩というのは、はたから見れば馬鹿馬鹿しい話でも、本人たちにとっては重大な営為なのであろう。紫式部の歌になだめられたはずの宣孝は、「浅い心のお前との仲は切れるなら切れるがいいんだよ」という歌を寄こし(33)、「もうお前には何も言うまい」と腹を立てたが、紫式部は笑って歌を返した。 ---------- 34 言ひ絶えば さこそは絶えめ なにかその みはらの池を つつみしもせむ (もう手紙も出さないとおっしゃるなら、そのように絶交するのもいいでしょう。どうしてあなたのお腹立ちに遠慮なんかいたしましょう) ---------- 宣孝は結局、夜中になって、「お前には勝てないよ」と降参することになる。父娘ほども年齢の離れた夫に対して、結婚後すぐに主導権を握る紫式部もさすがであるが、希代の天才である紫式部とこのようなやりとりをすることのできる宣孝というのも、考えてみれば大した男ではある。