「この1冊あれば他はいらない」『陰陽師』の作家が人生最後に書き上げたい“最終小説”
カオスな世界観の中で、果てしなく繰り広げられるバイオレンスとエロスの物語─。小説家・夢枕獏の出世作ともいえる『キマイラ』('82年~)や、『餓狼伝』('85年~)などの伝奇シリーズは、“漢のファンタジー”として根強いファンがいる。 【写真】格闘家・ヒクソン・グレイシーとの対談で“技”をかけられる夢枕獏
女性読者が行列をつくるサイン会
一方で、新刊のサイン会のたびに女性読者が行列をつくる作品もある。累計700万部を突破した空前のヒット作、『陰陽師』シリーズ('86年~)である。夢枕本人はこう振り返る。 「『陰陽師』はいきなり売れたわけじゃないんですよ。少しずつ、年1回増刷で、売れるまで10年近くかかったかな? その間に岡野玲子さんが漫画化してくれて、売れ始めたら映画やテレビドラマ、舞台でも演じられるようになって、一気に読者が増えたんです」 今年4月には、4本目の映画となる『陰陽師0』が公開。主人公・安倍晴明の学生時代を描いた脚本は、夢枕と40年以上の親交がある佐藤嗣麻子監督が手がけた。 「獏さんに初めて会ったのは私が19歳のときでした。講演会場にファンレターを渡しに行って、それがきっかけでSF愛好者たちとの交流会みたいなところに出入りしているうちに、獏さんから“君はもうこっち(作家)側の人間だから、いつか『陰陽師』を映像化してよ”と言われたんです」(佐藤監督) ファンへのリップサービスではなかった。創作の参考にと、夢枕から平安時代のことを調べた分厚い辞典を贈られたこともあったと話す佐藤は、占いや呪術を司る官職であった陰陽師の系譜を丹念に調べ上げ、綿密な時代考証を重ねながら映像作品の構想を温めてきた。積年の約束は、こうして果たされた。 『陰陽師0』の試写室で、夢枕は何度も泣いたという。予告編の最後には「どれだけ楽しみにしていただいても大丈夫です。ご期待ください」という夢枕のメッセージも流された。『陰陽師0』は期待に違わぬ大ヒットを記録し、興行収入は10億円を超えた。 “当たる”コンテンツとして、社会現象とまで評される『陰陽師』の人気。火付け役となった夢枕は、こう分析する。 「安倍晴明は僕がつくったキャラクターではなく、歴史上に実在した人物です。だから誰でも“私の陰陽師”“私の安倍晴明”を思い描くことができる。それがよかったんだと思うんですよね。陰陽師って平安時代に説話みたいなものが生まれて、鎌倉時代に『今昔物語集』に晴明が登場し、能や歌舞伎などの芸能で演じられ、明治のころには講談にもなった。陰陽師の物語には1000年以上の歴史があるんですよ。 ただ、その歴史の中で、僕が初めてやったことがひとつだけある。それは、晴明を“美形の男”として描いたことなんです」 安倍晴明は41歳で朝廷に仕える陰陽師となり、現役のまま85歳で没した。歴史上で語り継がれてきた晴明像は、おじいさんか子どもだった。しかし、小説には空白を埋める力がある。夢枕が描く晴明は40歳前後。シリーズ第1作には、その容姿がこう記されている。 《長身で、色白く、眼元の涼しい秀麗な美男子であったろう》 イケメンの主人公が呪術を使って摩訶不思議な事件を解決する。その物語が荒唐無稽にならないのは、登場人物が明確な理に則して動いているからだと夢枕は手の内を述べる。 「呪術を使った小説で、最初に理屈づけをしたのが僕の『陰陽師』だったと思うんです。“呪”というのは“名”であって、人間や物事の在様は名前をつけることによって縛られる。名前があるからそれが存在するというのは、科学が宇宙を理解するのと同じ方法なんですよ。そのルールを越えて事件を解決することはやっていないから、時には晴明が“これはおれにもどうにもできない”と博雅に言う場面も出てくるんです」 『陰陽師』には、晴明の相方として欠かせない《公卿にして雅楽家》の源博雅も、好男子として描かれている。 「晴明と博雅の相棒ものという設定は、書く前から決めていたんだけれども、意外だったのは2人の関係をBL(ボーイズラブ)だと受け取る読者がいたことで(笑)。その人たちが陰陽師ブームを後押しする一因になってくれるとは、さすがに僕も想像していなかった」