「この1冊あれば他はいらない」『陰陽師』の作家が人生最後に書き上げたい“最終小説”
体験するすべてを小説にフィードバック
小説家としてデビューするチャンスは26歳で巡ってきた。'77年、SF界の巨匠・筒井康隆を中心に活動していた同人誌『ネオ・ヌル』に発表した『カエルの死』という作品が、SF雑誌の『奇想天外』に転載。自分が書いた原稿で初めて収入を得た。 「『カエルの死』は、物語というよりも表現の面白さを認めてもらった作品で……」 と言って、夢枕がノートに再現したのが前ページの原稿。活字の配列でテーマを表現する、タイポグラフィックと呼ばれる手法である。 プロになった夢枕は、'79年に1冊目の著書となる連作短編集『ねこひきのオルオラネ』を上梓。随所にタイポグラフィックも駆使した大人のメルヘンで、主人公の「ぼく」には夢枕自身の経験が投影されている。早川版『猫弾きのオルオラネ』第2話『そして夢雪蝶は光のなか』には山で出会った女性が登場するが、夢枕が30歳で結婚した妻との出会いも霧ヶ峰の山小屋だった。 「かみさんの両親にご挨拶に行ったら、“失礼ですけど年収は?”って聞かれてね。当時の原稿収入は60万円しかなかったんだけれども、“アルバイトで食わせますから大丈夫です”って答えて。よくそれで結婚を許してもらえたよね(笑)。結婚してからしばらくは、かみさんもパン屋で働いていて、お店で余ったパンの耳やソーセージの切れ端をもらってきては、2人でそれを食べたりしながら僕は原稿を書いていた」 大人のメルヘンから一転、『キマイラ』シリーズに始まるバイオレンス作品を発表すると、夢枕は一躍ベストセラー作家となった。熱烈な読者の1人でもある前出の林家彦いちは言う。 「格闘シーンの描写が超リアルなんですよ。僕も柔道や空手をやっていたから身体の動きはよくわかるんですけど、技をかけたときの関節の曲がり具合とか、読みながら痛みまで伝わってきますからね」 事実を知り尽くしていればこそ、本物以上の虚構も書ける。格闘技に関する夢枕の知識は筋金入りだった。戦いの“奥儀”に迫ろうと道場やジムに通い、最強と謳われるグレイシー柔術の秘密を探るためにブラジルまで飛んで行ったこともある。 夢枕が自ら没入する趣味は、小説にフィードバックされる取材でもあった。雪崩にも遭遇したヒマラヤでの経験は『神々の山嶺』('97年)に結実し、柴田錬三郎賞と日本冒険小説協会賞を受けた。釣り人を主人公にした『大江戸釣客伝』('11年)は泉鏡花文学賞、舟橋聖一文学賞、吉川英治文学賞の三冠に輝いた。30代で月産800枚を超えた驚異的な原稿枚数(アウトプット)は、常人離れした取材(インプット)にも支えられている。夢枕の取材旅行に何度も同行した彦いちは言う。 「ヒマラヤにも行きましたし、カヌーイストの野田知佑さんと連れ立ってカナダのユーコン川に行ったこともあります。カヌーに乗っていて、現地のガイドが“バック(後ろ)!”って言うたびに、獏さんが呼ばれたと思い大きな声で“ハイ!”って返事して(笑)。 とにかく獏さんは何でも自分でやってみないと気が済まないところがあって、シルクロードを旅したとき、砂漠の真ん中で砂嵐に襲われたんですよ。危ないからバスの中で待機するように言われたのに、獏さんは“僕はこの砂嵐を感じてきます”って外に出て行った。“身体中の穴をふさげば大丈夫”って獏さんが言うから、僕も負けずに目と鼻と耳をふさいで飛び出しましたけれども、あれは『地球の歩き方』には絶対に載せられない砂漠の楽しみ方でしたね」 シルクロードの旅は、約30年前に連載がスタートした冒険小説『ダライ・ラマの密使』のための取材。僧侶で探検家の河口慧海がチベットでシャーロック・ホームズと出会い、仏教の原典を探し出す壮大なストーリーである。 「コナン・ドイルの『最後の事件』で、シャーロック・ホームズは死ぬんですが、実は生きていて、シーゲルソンというノルウェー人になりすましてチベットに行っていたと『空き家の冒険』に書かれているんです。その期間が、河口のチベット探検の時期と重なっていることがわかってこの小説を書き始めたんですけれども、チベットで伝説となっているシャンバラという理想郷がタクラマカン砂漠の真ん中にあったと決めるまでに20年かかった。 さらに当時は、ロシアと中国とイギリスがチベットの空白域を取り合うグレートゲームと呼ばれる状況の真っただ中だったから、ラスプーチンが出てきたりして、どんどん話がふくらんで、完結するまでにあと何年かかるか(笑)。フィジカルは間違いなく落ちてきているので、寿命があるうちに終わらせないといけないと思っているんだけどね」