20世紀最高の天才学者は「ダメ人間」だった…愛車シトロエンで事故った「仰天エピソード」
『悲しき熱帯」の誕生
そんなある時、レヴィ=ストロースは社会学者セレスタン・ブーグレからの電話を受けます。ブーグレは彼にブラジルのサンパウロ大学で社会学講座の教授を探していると持ちかけました。その話を聞いて、レヴィ=ストロースはすぐにブラジル行きを決めたのです。 1935年に船でブラジルに向かったレヴィ=ストロースはサンパウロ大学で講義を担当する傍ら、カイガングの人々を訪ねました。その年末からの冬休みにはブラジル内陸に数ヵ月にわたる調査旅行に出かけ、マト・グロッソ地方で、精緻な身体装飾を行うカデュヴェオやボロロの人たちと出合います。そして翌年の冬休みにはパリに戻って、調査旅行の展示会を開きました。 1938年にはサンパウロ大学を辞職し、クイアバからマデイラ川までの高地の西部を横切って、横断的な地図をつくる調査準備に取りかかっています。その調査は30頭の牛、それぞれにラバ1頭とライフル銃1丁を持たせた15人の牧童、収集品の運搬用のトラックから成る大規模なものでした。 自然の真っただ中に暮らす人間との出合いを含め、1930年代後半におけるブラジル滞在の経験を綴った著作が1955年刊行の『悲しき熱帯』でした。第二次世界大戦前に「未開」の地を訪ね歩いた人類学者が書き上げた旅行記は、帝国主義やマルクス主義、実存主義といった西洋の政治や思想が行き詰まりを見せつつあった第二次世界大戦後に、新しい時代の始まりを予感させるものであったのです。 さらに連載記事〈なぜ人類は「近親相姦」を固く禁じているのか…ひとりの天才学者が考えついた「納得の理由」〉では、人類学の「ここだけ押さえておけばいい」という超重要ポイントを紹介しています。
奥野 克巳