思考停止でいちゃいけない。抑圧を解き放ちたいとき、あなたならどうしますか?
世間のルールや価値観に、生まれながらのスペックに、DNAやホルモンに制限される人生を、わたしたちは思考停止で受け入れてばかりいないだろうか。 「タブー」蔓延る現代に放つ、羽田圭介さんの衝撃の問題作『タブー・トラック』。砂川文次さんが書評を寄せてくださいました(群像2024年11月号掲載)。
雁字搦めのルールにどう立ち向かうか
本作─『タブー・トラック』─は、何かを成し遂げるというよりもむしろ失点を出さないという安定感で自らの評価を確たるものにしつつ、そのことに鬱屈する中堅どころの俳優・橘響梧、ウェアラブル・デバイスや瞑想やジム通いによって己を律し、スポンサーをはじめとする映像制作に携わる関係者に心を配る脚本家の井刈蒔、日本固有の労働環境により心身を苛まれる会社員・中松優一、その一人娘で動画配信を行いながら、高校生という身分であっても既に経済的には自立しつつある七海の4人が織りなす群像劇だ。 といっても、この4人が一堂に会して何か物語ないしは流れを作っていくということはなく、どちらかといえば時に交わり、時にすれ違い、あるいは全く無関係の時間をそれぞれが過ごし、しかも彼ら四人だけでなく彼らを取り巻くほぼすべての人々が時代や世相や事件や事故という、ほとんど個々人の努力の埒外のことに翻弄されながら物語は進んでいく。そして彼らを翻弄するこの濁流のようなものが、どこまでもリアリスティックであるが故に全くドラマチックではないのだ。例えば十代から映像の世界でプレイヤーとして活躍していた蒔は、今は監督や脚本家として作り手へと回ったわけだが、彼女の履歴にあった「女優」の項はいつの間にか「女性俳優」へと変わっていて、そこに彼女の心情を委ねる余白のようなものは一切なく、それどころか何か創作をするにあたってもスポンサーや制作元からは「この単語は使うな」、「登用する人種に配慮しろ」、「各話の構成は指定のものにせよ」とほとんどルールに等しいもので縛り上げられる。 表題にあるタブー・トラックとは、蒔と似たような抑圧環境に置かれた橘が、そうした衆人環視から逃れるために購入した改造キャンピングカーのことで、彼は空き時間を見つけてはこの中で社会的にタブーとされる言動や行為を行って憂さを晴らしていた。動画配信によって半ば自立してしまっている七海や、社会的制度とうまく折り合えないその父・優一などの人物とて、でき得ることといえばせいぜいが時代という濁流に身を委ねるか押し流されるかの違い程度でしかなく、時代そのものにどうという影響も及ぼしえないという意味でこの主要登場人物の四人は平等といっていいだろう。そしてこの4人はそれぞれの爆弾を内に抱えていて、外側の世界との摩擦がゆっくりと進行して、物語はのっぴきならない状況へと突き進んでいくこととなる。