「論破」と「マウンティング」から離れて...大学生との対話で得た気付き
同特集で、論壇誌の「場」としての意義を考察したのが、共同通信文化部記者の米田亮太氏の論考である。 米田氏は「議論とは、互いに協力して、互いの変容をうながすような相互プロセスではないか」としたうえで、「そのように考えれば、論文を読むという行為は、自分自身が変容し、複雑に成熟していくプロセスに参入していくこととも捉えられる」と述べる。 政治の問題が直ちに経済にインパクトを与え、テクノロジーの進化が国際秩序に影響を及ぼすなど、いまや世界中の問題がきわめて複雑に絡み合っている。ならば私たち自身も、「複雑に成熟」していかなければならない。 そのために必要なのは、分野や立場が異なる人間同士が、「論破」や「マウンティング」とは距離を置きつつ、互いにリスペクトし合いながら、答えのない問題について話し合う態度ではないか。 これまで、そうした対話の「場」をもっとも提供してきたメディアが論壇誌であった。かつての森嶋通夫と関嘉彦、または岡崎久彦と永井陽之助の論争などは、その代表例だろう。 世間は彼らの論争を通じて、日本の論点を知るとともに、対話の可能性を実感したはずだ。本来的に言えば、ボーダレスの議論が求められるいまこそ、論壇誌が果たしうる役割は大きい。 他方で、知的ジャーナリズムが改めるべきなのが読者との距離感ではないだろうか。鷲田清一氏は、創刊時の編集委員である山崎正和が『アステイオン』を「言論の交差点」として開こうとしたのは、「『日付』のある思想」があったと書く。 山崎は「思想というものは、本質論という発想にかまけて『日付のない現象』ばかり扱うのではなく、自分が生きている時代と場所に課されている問題と取り組まねばならないと考えていた」というのだ。 私は『Voice』を編集するうえで、読者にとって「手触り感」のある記事を意識してきた。時代が変質するいま、大局的な議論が必要不可欠だ。一方、読者からすれば、まずは日々の自分の暮らしを大事に思うのは当然である。その感覚に応える努力をしなければ、「役に立たない」と思われかねない。 週刊誌も月刊誌も季刊誌も、表紙に「何年何月号」などと冠する。そして、執筆者も編集者もおのずから、その「日付」に世の中に発信することを意識する。同じ時代を生きる読者に向け、その瞬間にこそ議論すべきテーマを届ける。 当たり前のように聞こえるが、それが雑誌というメディアの存在意義であり続けていく。 もう一つだけ、今後の雑誌に求められる態度を考えると、私はユーモアや親しみやすさだと感じている。「論壇誌」や「知的ジャーナリズム」と聞けば、いかにも知性主義を身にまとった堅苦しい雰囲気を読みとり、直感的に敬遠する読者もいるだろう。 それでは互いにもったいない。敷居は低く、しかし奥行きがある。気軽に立ち寄ることができて、気づけば長居してしまう。論壇誌、そして知的ジャーナリズムは、そんな存在をめざすべきだと思うのである。