『論理的思考とは何か』渡邉雅子著 評者:阿部公彦【新刊この一冊】
評者:阿部公彦(東京大学教授)
本書はお説教調の勉強本ではない。タイトルからは、例えば〈論理的な例文〉と〈非論理的な例文〉が並んでいて戒めが述べられる、といった内容を想像するかもしれないが、本書は少々違う。むしろ、読み始めると論理の謎が深まる。え? なぜ? と思う。そして、そこから興味が募り、論理的とはどういうことか、その意味や機能について考えさせられる。 「論理的思考」は一筋縄ではいかないものらしい。お互い「論理的思考」をしているのにずれが生じ、うまくいかないことがある。なぜだろう。著者はそこを明快に整理したうえで、処方箋を示そうとする。 出発点は、著者が米国の大学に留学した際、小論文の課題でなかなか及第点がもらえなかった経験にある。どうやら原因は知性でも語学力でもなく、小論文を書くときの「型」だった。そして、この「型」の土台を作るのが、文化圏ごとにやや異なる論理的思考の雛型なのである。つまり、文化圏ごとに作文の型=論理の手順に違いがあり、そこからさまざまな軋轢が生じるという。 渡邉によれば、論理には大きく分けて四つのモデルがある。日米の思考法の違いはよく指摘されてきた。アメリカ的エッセイでは主張を掲げたうえで根拠を示し、結論まで効率的に一直線に進む。ここには「経済の論理」がある。これに対し、日本的感想文では、書き手の体験が重視され、紆余曲折はあるものの、最終的に共感と合意形成を狙う。そこでは「社会の論理」が優先される。これらに加え、〈正─反─合〉という思考の過程そのものを重視するフランスのディセルタシオン(「政治の論理」)、成文法規や聖典に基づいた一義的な結論の正しさを重視するイランのエンシャー(「法技術の論理」)などもある。 ただし、四つの型はあくまでそれぞれの文化圏で比較的優位というだけで、決して絶対的なものではない。論理的思考は、その状況に応じて選び取られ、使い分けられる。私たちは上手にモードを切り替えているのだ。そうした「選択」の意識を持つことで、論理の型の違いから生ずる衝突を回避できると渡邉は言う。 論理的というと、哲学を専門としていない人ほど形式論理のようなものを想定しがちで、そこに絶対的な決着を求める。しかし、自然言語を現実の中で運用すれば必ずノイズやあいまいさが混入し、数学の演算のようにはならない。形式論理の理解はもちろん必要だが、論理が日常に落とし込まれるときには「実践的論理」が必要となると、すでにアリストテレスはわかっていた。だから形式的完結より本来的な意味での「レトリック」を駆使した説得の技術が重要になった。西洋ではすでに古典古代の時代からこうした論理や思考をめぐるパターンの意識が芽生えていた。 このところ日本では「論理」が濫用される。誰もが「子供たちに論理的な言葉の使い方を学ばせ……」といったフレーズを連呼し、数年前には高等学校で「論理国語」なる科目まで導入された。しかし、そもそも論理的とはどういうことか、学習指導要領の解説を読んでもよくわからずモヤモヤする……。そんな人にとって大いに刺激になる一冊だ。 (『中央公論』2025年1月号より) 渡邉雅子/評者:阿部公彦(東京大学教授) 【著者】 ◆渡邉雅子〔わたなべまさこ〕 コロンビア大学大学院博士課程修了。Ph.D.(社会学)。専門は知識社会学、比較教育・比較文化、カリキュラム学。著書に『「論理的思考」の文化的基盤』など。 【評者】 ◆阿部公彦〔あべまさひこ〕 1966年神奈川県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。ケンブリッジ大学大学院博士課程修了。Ph.D.(文学)。専門は英米文学。著書に『事務に踊る人々』、共著に『ことばの危機』など。