パワハラで名門ラグビー部をクビになった監督が省みる「私の大きな間違い」
選手1人ひとりの存在や行動を承認することが、もっとも大切なのではないだろうか。 まず反省しなければならないのは、選手と指導者がお互い対等にモノをいえる関係を築かなかったことだ。 選手との関係はもちろん、チームのスタッフや関係者との関わり方も、主従関係からフラットな関係に転換すべきだった。お互いに対等でなければ、相手は自分の意見をいうことができない。 私は、内発的動機付けによって選手の主体性を引き出し、本人が自ら考えて判断し行動できるようになってもらうことが、スポーツ指導の目的だと考えている。選手1人ひとりが自ら考えて判断し行動できるチームが、高いパフォーマンスを発揮するからだ。 内発的動機付けとは、人の内側から生まれる感情や思考、信条によってつくられる動機のことをいう。主体性のカギになるものが、内発的動機付けなのだ。 最終的な人格形成という意味で、スポーツ指導とはリーダーシップ教育だといえるのではないかと私は考える。自ら考えて判断し行動できる人こそがリーダーシップの持ち主であり、自ら考えて判断し行動できる力を育てることが、リーダーシップ教育だ。
● 自らの指導力のなさが 体罰に結びついていた リーダーシップには、コミュニケーション能力や行動力、判断力、創造力などさまざまな要素があるが、そのベースになるものは、自ら考えて判断し行動できる力なのだ。そのベースを築くためには、選手と指導者とのあいだに、フラットで対等にモノがいえる関係がなければならない。 逆に、お互いにフラットな関係のなかで、選手が意見をいったときに、指導者がどれだけの度量をもって対応できるかが問われているともいえる。 今思えば、以前の私は、度量がなかったから「つべこべいわず、とにかくやれ」といって、強制的にやらせていたのだろう。 まさに、私の指導力のなさが体罰に結びついていた。 今振り返ればそういえるのだが、当時は「これが最善だ」と思ってやっていた。悪いという自覚がないどころか、それが愛だとさえ思っていたのだ。 「指導とはそういうものだ」という信念があったから、ときには威圧や強制とも取れるような言動を、私はむしろ意図的に行っていた。 指導者は、ときには役者としてふるまうことがある。その時々の状況に応じて、優しい雰囲気を出したり、厳しい雰囲気を出したりしながら、ある意味パフォーマンスをするわけだ。