昭和天皇の孤独な決意…軍部の「下克上」、国際協調の望みはむなしく潰えた
その孤独の最大の原因は、天皇が軍を指揮監督する「統帥権」を蹂躙した軍部にありました。
「全体陸軍は虚偽を云ふ」「どうも陸軍のものは常識が乏しい」。百武はそんな天皇の言葉も記しました。軍部を巡る天皇の苦悩は根が深く、やはり5年前に公開された「昭和天皇拝謁記」を読み解くと、より切実なものとして理解することができます。
「昭和天皇拝謁(はいえつ)記」は、戦後の初代宮内庁長官田島道治(みちじ)が、1949年から53年までの天皇との拝謁(面会)を記録した史料です。天皇は、戦前の軍部の動きを「下克上」と呼び、うまく対処できなかったことを何度も悔いています。
その後悔の出発点は、即位の2年後、27歳で経験した軍部の謀略「張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件」でした。中国に駐留し、勢力拡大をもくろむ関東軍が、列車を爆破して乗っていた満州軍閥の張作霖を殺害したのです。昭和天皇は、「処罰を曖昧にした事が後年陸軍の綱紀のゆるむ始めになった」「敗戦に至る禍根の抑々(そもそも)の発端」という思いを田島に漏らしました。
軍部の専横、貫けなかった理想
爆殺事件の関係者を軍法会議で処罰すると天皇に報告した田中義一首相は、前言を翻し、行政処分で済ませようとしました。天皇がこれを叱責(しっせき)すると、田中内閣は総辞職し、処分はそのままになりました。
31年の満州事変では、朝鮮駐留の部隊が、独断で中国に越境する統帥違反を犯します。朝鮮軍司令官の林銑十郎(せんじゅうろう)は処分を覚悟し、おびえる心境を日記に残しているのに、「軍事上やむを得ない」と、注意だけで済まされました。
20歳の頃、欧州を視察した昭和天皇は、議院や内閣に信を置く英国王ジョージ5世の抑制的な立憲君主像を模範としました。しかし、「明治以来、戦場に立って日本を守ってきたのは我々だ」と自負する軍部の専横により、その理想を貫くことはできなかったのです。
重臣は殺害され、孤立
軍部は自分たちの意にそぐわない天皇像を認めようとしませんでした。摂政時代、即位後と天皇を補佐した侍従武官長奈良武次(たけじ)は、昭和天皇は軟弱で西洋かぶれだと、回想記の中で批判しています。天皇も奈良の2代あとの侍従武官長宇佐美興屋(おきいえ)について、「(天皇の)所信を伝えて陸軍の誤りを正そうと努めず、本当に頼りない」と、侍従長百武三郎に嘆きました。