昭和天皇の孤独な決意…軍部の「下克上」、国際協調の望みはむなしく潰えた
昭和天皇は国際協調路線を望んでいました。しかし、それを支持する政治家たちが、急進的な軍人の関与したテロに狙われます。天皇は36年の「2・26事件」こそ、強い姿勢で反乱軍を鎮圧しましたが、努めて軍部の輔弼(ほひつ)(補佐)に従いました。政党政治が崩壊、頼りの重臣も殺害され、孤立した状態だったのです。
知られざる本心
昭和天皇は戦後、田島の前で、「勢(いきおい)の赴く所、実に不得已(やむをえざる)ものがあった」「宣戦の詔(みことのり)で朕(ちん)が志ならんや(本意ではない)と言った」と釈明しました。しかし、在野から長官になった田島に、「開戦詔書が陛下の真意に背いて発せられたとは、国民は受けとれません」といさめられると、天皇は、「そうか」と答え、黙り込んでしまいました。
戦争に負けるまでの日本をふり返って残念なのは、天皇の平和への願いや軍部を巡る苦悩が、一般国民に一切知らされなかった統治機構のあり方です。
昭和天皇の本心や国家中枢の動きが広く知れわたっていたら、戦争回避の議論がわき起こったかもしれない。天皇も孤立を深めず、軍部を制御する理性を発揮する余地があったのではないでしょうか。(聞き手・編集委員 沖村豪)