哲学者が親の介護で理解した「孤独を抜けだせない人」の一つの特徴
誰しもが大なり小なり、生きることに苦痛を感じているものです。時には周囲にその苦しみを理解して貰えず、孤独を抱えることもあるでしょう。しかし、「相手に理解される」ことばかり望んでいても問題は解消されません。かえって孤立する可能性も高めてしまうのです。哲学者の岸見一郎さんが語ります。 【図】不安の度合いの3つの分類 ※本稿は、月刊誌『PHP』2024年3月号より、一部編集・抜粋したものです。。
孤立しないために大切なこと
もしも人がこの世界にただ一人で生きているのであれば、孤独を感じることはないでしょう。 しかし、実際には一人で生きているのではないので、どこかに誰かがいる限り、他者のことを思って孤独を感じることがあります。他者とつながっていると感じられたら孤独であると感じることはないでしょうが、どのように人とつながるかが問題です。 キム・ヨンスの小説に、次のような一節があります。 「私は母のおかげで、生と死の間には苦痛があるということを知った。まったく個人的な苦痛。母が死んだその瞬間まで、私は意識のない母の手を撫でながら声が嗄れるまで愛しているといったが、その最後の瞬間にも、私は母の苦痛だけは理解できなかった。 苦痛よりは死の方が理解しやすいようで、いざ母が息を引き取った後は、それまで病床に横たわっていた母との距離感はなくなった。共感できなかったという点で、苦痛は明らかに母と私の間を隔てていたが、死はそれほどではなかった」(「君が誰であれ、どれほど孤独であれ」) 病者の感じる苦痛は、ただ身体の痛みだけではありません。腕に注射針を刺される時の痛みであれば耐えられます。 しかし、身体のどこかに絶えず痛みがあったり、身体を自由に動かせないまま病床に長くいたりすれば、これからの人生のことを考えないわけにいかなくなります。すぐに退院できると医師からいわれていても、このまま死ぬのではないかというような不安に襲われることもあります。 そのような時、身体の痛みは生きることの苦しみ、苦痛になります。この苦痛は病気になった時に顕在化しますが、病気にならなくても生きることは苦しいのです。「生と死の間には苦痛がある」という時の苦痛は、生きる苦痛です。