「いつか殺してやる」ダンプ松本、憎しみ続けた父が認知症に…最期のやりとりを告白「心から許したことはなかった」
「色紙を持って家まで来るんじゃねぇ!」リングを降りても「ヒール・ダンプ松本」を意識
1984年、ヒール軍団・極悪同盟を結成してダンプ松本に改名。同期の長与千種・ライオネス飛鳥によるタッグチーム「クラッシュギャルズ」の敵役として激しい抗争を繰り広げ、空前の「女子プロレスブーム」を巻き起こした。 ダンプ松本:「この世で1番殺したい、憎たらしいというのはダンプ松本」って言われていた。そういう風になるために自分は頑張っていたから、「やったー」ってうれしかったですけどね。どうやったら嫌われるんだろう。どうやったら嫌がられるんだろう。それしか考えていなかったので。 「絶対的な悪」でいるために、リングを降りても「ダンプ松本」でいつづけたという。 ダンプ松本:「実家に帰ってくると優しいんだよ」とか、「リングを降りたら優しいんだよ」って思われるのが1番嫌でだから、家に帰ったときとか、道を歩いているときとか、リングを降りたときのが怖くしてた。 近所の人とかが、「今日、香ちゃん帰ってきているでしょ?サインしてくれる?」ってサイン色紙を持ってくる。お母さんが出ていってサイン色紙を受け取ろうとすると、それを自分が行って「色紙を持って家まで来るんじゃねぇ!」って色紙を投げ飛ばすのよ。そうすると、お母さんと近所の人が色紙を拾って。お母さんから「次の日に日本酒を持って謝りに行かなくちゃならないから、家になるべく帰ってこないで」って言われた。 ヒールに徹し、世間から嫌われ続けたダンプ松本。当時、心安らぐ唯一の場所だったのはパチンコ屋だった。 ダンプ松本:パチンコ屋さんに行くと、自分が座っていても あっ!ダンプだ!って言われるくらいで、あとは自分が出るのが夢中だから、あんまり自分のことを気にされないし、喋りかけられなくて済むのね。騒がれなくて済むし…居場所、安心できるっていうかホッとできる場所だったの」
母のために家を建てるも、父も一緒に住むことに…
悪役レスラーの孤独を感じつつも、プロレスの世界に飛び込んだ理由の1つだった「母への親孝行」という夢は叶えることができた。 ダンプ松本:(年収)4000万から6000万ぐらいはあったと思う。お母さんに家建ててあげたし、仕送りもしてあげてたから、それはすごく助かったと思う。助けてあげてたかなって感じ。 ーーお父さんも住んでいたんですか? ダンプ松本:住んでんのよ。お父さんも住んでたのよ。そしたら『男が1人いた方がいいから』っていうんで、しょうがない。 一方、父との関係は変わらず冷え切ったままだったという。 ダンプ松本:ほとんど喋ったことがなかったの。ダンプ松本になったときに、怖いと思ってたみたい。テレビとか見て流血させたりとかしてるからね。1度だけ。一緒にお酒飲んだときに、文句言われて「てめぇ殺すぞ」って言ったら、小さくなって隣の部屋に行っちゃった。話したくなかった。嫌いだったからね本当に。