伊東輝悦が50歳まで現役を続けられた理由「若いころのイメージを追いかけたりはしなかった」
引退インタビュー伊東輝悦(アスルクラロ沼津)前編 その決断は、さまざまな感情を呼び覚ましたはずだ。日本中のあちらこちらで、あの日、あの時、あの場所、あの瞬間が、思い出されたに違いない。 【写真】伊東輝悦とも対戦した、あの人は今~1994年Jリーグ得点王「オッツェ」今昔フォトギャラリー 伊東輝悦がスパイクを脱いだ。ディエゴ・マラドーナにも例えられた天才少年は、地元の清水エスパルスで1993年にプロキャリアをスタートさせ、J1、J2、J3の複数クラブでプレーしてきた。 1996年のアトランタ五輪で日本サッカーの歴史に刻まれるゴールを決め、1998年のフランスワールドカップでもメンバー入りしている。生粋の10番タイプだったMFは、年齢を重ねるごとに職人肌のベテランへ姿を変えていった。積み上げてきたプロキャリアは、実に32シーズンにも及ぶ。 「Jリーグのチームは12月が基本的にオフなわけだけど、何かちょっと変な感じはするかなあ。ありがたいことに(引退することで)こういう取材がちょいちょい入っているので、何もしてないってことはないんですけどね」 撮影時に着用したオーバーオールは、最後の所属先のアスルクラロ沼津が移動着として採用しているものだ。職人気質なプレー同様の渋みが漂う。 「昨日は時間もあったし、ちょっと身体を動かしたくて、ゆっくり50分ぐらいジョギングをしたんです。だから今日はすっごい筋肉痛で。最後に身体を動かしたのは......10日ぐらい前か。J3リーグ最終節の1週間後くらいに、リラックスしたゲームをやって以来だったので」 これまでと違う日常は、「引退」を実感させるものなのか。 伊東は表情を変えることなく、ゆっくりと答える。 「最終節の時に、もう終わったんだなって思ったから。劇的に気持ちが変わるとか、そこは、それほど」 妻にはシーズンのはじめに、「今年で終わりになるかもしれない」と伝えていた。気持ちが固まってあらためて報告すると、「長い間、お疲れさまでした」と労われた。短い言葉のやり取りで、夫婦は心を通わせることができる。 「高校2年の息子はちょっと、びっくりしていたけど。物心がついたころから親父はサッカー選手で、それが普通というか当たり前の日常だったからね」