19歳で退位「花山天皇」出家した“その後の人生” 兼家・道兼に騙され出家、退位に追い込まれた
しかし、花山天皇は出家して退位したときに、まだ19歳であり、その後も人生は続く。あるときには意外なかたちで、再び注目されることにもなった。出家後の花山天皇について、見てみよう。 ■絶望のどん底から修行の道へ 「私とともに出家しましょう」 そんな道兼の言葉を信じて、花山天皇は元慶寺(京都市山科区)にて、出家することになった。 だが、花山天皇が剃髪するやいなや、道兼は態度を急変。「いったん家に帰って、父に出家前の姿を見せて、事情を説明してきます。必ず戻ってきますから」と言って退出してしまった。このときに花山天皇は陰謀に気づき、「私を騙したな」と言って泣いたが、あとの祭りである。
しばらくして、追い打ちをかけるように、花山天皇の同腹の長姉が23歳の若さで亡くなった。花山天皇の姉弟はすべて、この世から去ってしまったことになる。 まさに人生のどん底のなか、心の支えを求めたのだろう。出家した花山院は、寛和2(986)年7月22日、まさに一条天皇の即位式が行われる日に出発して、書写山圓教寺(兵庫県姫路市)へ。性空上人に「結縁」、つまり、仏道に縁を結び、そのもとで研鑽を積んでいる。
その後は、比叡山や熊野などに赴いて、花山院は仏道修行に励んだ。比叡山延暦寺の戒壇院では、「悟りの位に進んだ」とされる儀式「授戒灌頂」を経て法皇となっている。 熊野に行くときには、藤原実資を呼び出して「馬を貸してくれ」と頼んだのだとか。実資は、花山院の要求に応じて馬を献上したと、日記の『小右記』に記している。 そもそも、かつて花山院が出家へと心が傾いたのは、最愛の女御だった忯子を失い、深く失望したことがきっかけだった。そんな心のスキマを利用して、道兼が出家を持ちかけることとなった。
今や法皇となった花山院は、忯子を弔いながら、修行に励んだのだろう。熊野を出発してからは、宝印のある三十三の観音霊場を巡礼する修行を行ったとも言われている。 ■女好きは相変わらずで事件に巻き込まれる そんななか、花山院は28歳のときに、とんでもない事件に巻き込まれる。 故・藤原為光の家で、藤原伊周と弟の隆家と遭遇すると、従者同士が乱闘する騒ぎになり、花山院と一緒にいた童子2人が殺害されて、首を持ち去られたというのだ。乱闘の最中には、従者より花山院に矢が射られたともいうから、ただ事ではない。