父親と二人三脚で金メダル目指す…パリ五輪レスリング藤波朱理が決勝へ「沙保里さんとお父様の“肩車”を自分も」
■父も教員を辞め2人で東京へ
高校を卒業し、藤波選手が進学先に選んだのは東京の日本体育大学だった。
しかし、練習場には俊一さんの姿もあった。 俊一さんは34年間務めた教員を辞め、コーチとして誘いのあった日体大へ藤波選手と共に移った。
俊一さん: 「教員やめてまで、半端じゃないよね。覚悟が違う。技術がどうのこうのじゃないんだよね。(コーチは)他にもおるでね。そうじゃなくて、大学へ行ったりとか、そういうマネージメントの問題やね。色々なナショナルの練習でもそうだし、おらなきゃね、行かなきゃだめかなというのはあるね」 レスリングの技術だけではなく、オリンピックへ挑む環境を万全に整えたいというのが俊一さんの想いだった。 父の影響で4歳から始めたレスリング。
4歳で初めての全国大会に出場し、ホームビデオには負けて泣く姿も残っていた。 始めた頃はなかなか勝てず、泣くことも多かったというが、俊一さんは怒ることはなく、藤波選手にいつもやりたい道を選ばせてくれたという。
藤波選手: 「『やりたかったらやれ、そのかわりやらなかったら負けるぞ』みたいな。のびのびとさせてくれている感じです」 負けず嫌いだった藤波選手は、次第に自ら指導を乞うようになり、パリオリンピックで優勝することが目標になった。
Q俊一さんはどんな存在ですか 藤波選手: 「おらんかったら、父が父じゃなったら自分はどうしていたんだろう、どうなっていたんだろうと思うくらい、本当に心強い存在ですね」
■五輪開幕直前に大ケガ…背中を押してくれた地元の声援
そして世界選手権で優勝し、パリオリンピックへの出場を決めたが、2024年3月、練習中に左ひじを脱臼し、手術した。
藤波選手: 「パリオリンピックどうしよう、オリンピック間に合うかなと直後は思って。ひじも過去最大の痛みでしたし、心の方も最大の痛みというか。レスリングができなかった期間というのは、すごく考えるものもたくさんありましたし」 俊一さん: 「私はたまたまその時、三重県の方に業務のためにいなくて、電話で連絡を受けました。予想より早く回復しているんじゃないかということで、月末には軽くレスリングも練習に入れるということで」 パリ五輪まで残りわずか。不安のなか背中を押してくれたのが、ふるさと・四日市市からの大声援だった。