日本の戦争は「寝返り」が当たり前…将棋をさらにおもしろくした「持ち駒」という日本の独自ルール
■将棋を愛した歴代の徳川将軍 王様を守る陣形として「美濃囲い」という形がありますが、この名前を付けたのは織田信長だという逸話もあります。その真偽を実証するのは難しいでしょうが、信長公も将棋を遊んでいたのは確かです。 戦国時代が終わり江戸時代に入ると、徳川幕府は、将棋家に禄(ろく)を与え、将棋を保護しました。将棋家とは、将棋を生業(なりわい)とする家で、大橋家・大橋分家・伊藤家の三つの家がありました。 歴代の徳川将軍も将棋を愛好したようで、八代将軍吉宗は、毎年11月17日に将棋家のトップが将軍の御前で将棋を指す「御前将棋」を制度化します。十代将軍家治は、歴代将軍の中でも特に将棋好きだったようで、残された棋譜の内容から、現代のプロ棋士並みに強かったとも言われることがあります。こうして将棋は、現代の私たちに伝えられてきました。 ■捕まえた敵を味方にするのは日本特有 それでは、日本の将棋には、どのような特徴があるのでしょうか。外国の将棋類と比べてみましょう。 まず、大きな特徴が「持ち駒」です。一般に、チェスや中国将棋(象棋)などの他の将棋類では、敵に捕まった駒は盤上から排除され、そのゲーム中は復活しません。相手の将軍や兵士は殺してしまうわけです。 これに対して、将棋では、捕まえた駒は自分の味方になり、盤上の自分の好きな場所に復活させることができます。この「持ち駒」の制度により、将棋はとても複雑なゲームになりました。 持ち駒のルールは、日本の将棋に特有のルールです。なぜこのルールが生まれたのでしょうか。 ときどき指摘されるのが、日本国内の戦争のイメージの影響です。日本国内での戦争は、同じ民族の中の内輪もめの形をとります。このため、前の戦(いくさ)で敵だった者が、次の戦では味方になったり、自分の味方が相手に寝返ったりということがよく起こります。 本能寺の変の直前、秀吉と毛利は戦争をしていましたが、関ケ原の合戦では、西軍の総大将を毛利が務めます。関ケ原の小早川勢のように、合戦(かっせん)中に敵将に寝返るなどということも起こっています。 相手の将軍を捕まえたとき、殺してしまうのではなく、自分の側の部下に引き込むという「持ち駒」の発想は、日本国内の戦争に親和的です。