コーヒーで旅する日本/四国編|田園風景のただ中にぽつんと一軒。幅広い世代が集う、小さな店が秘めた大きな包容力。「クエイル珈琲」
全国的に盛り上がりを見せるコーヒーシーン。飲食店という枠を超え、さまざまなライフスタイルやカルチャーと溶け合っている。瀬戸内海を挟んで、4つの県が独自のカラーを競う四国は、県ごとの喫茶文化にも個性を発揮。気鋭のロースターやバリスタが、各地で新たなコーヒーカルチャーを生み出している。そんな四国で注目のショップを紹介する当連載。店主や店長たちが推す店へと数珠つなぎで回を重ねていく。 【写真を見る】店内で目を引く水色のエスプレッソマシンは井口さんのお気に入り 四国編の第25回は、徳島県石井町の「クエイル珈琲」。広大な田畑をバックにポツンと立つ、小さな箱のような店を訪れると、のどかな風景にいっそう開放的が感じられる。地元出身の店主・井口さんにとって、日々訪れるお客のほとんどは、ご近所さんのような感覚。お年寄りから農家の人々、小中学生まで幅広い世代が立ち寄る憩いの場に。コロナ禍の中でのオープンを経て、この小さなコーヒーショップが、世代を問わず界隈の日常に寄り添える場になった理由とは。 Profile|井口三千代(いぐち・みちよ) 1976年(昭和51年)、徳島県生まれ。ホテルの喫茶部門に勤めていたときに、コーヒーを求める世代の幅広さを感じて開店を志し、徳島市内の自家焙煎コーヒー店に転身。15年にわたって調理や接客、豆の販売まで経験。この間に焙煎の技術を学び、2020年に地元の石井町で「クエイル珈琲」を開店。 ■記憶に残る、ロースターとしてのはじめの一歩 延々と広がる田園風景の真ん中に、ぽつんと一軒。青いテントを掲げた「クエイル珈琲」のロケーションは、開放感に満ちている。「今でこそ大きな商業施設もできましたが、私の小さいころは本当に見渡す限り、田んぼばっかりでした」と笑う店主の井口さん。開店時間になると、車で乗り付けるお客が入れ代わり立ち代わり。コーヒーを手渡すまでの間はもれなく、世間話に花が咲く。子どもからお年寄りまで年齢層も幅広く、時に野菜の差し入れが届いたりする。コーヒーを通して和やかな時間が、ここにはある。 「以前は、コーヒーって好きな人だけが飲むものと思っていましたが、思った以上にいろんな世代の方が来てくれますね」。井口さんが、そのことに気づいたのは、かつてホテルの喫茶部門に勤めていたころ。さまざまな人が集まる場所だからこそいっそう、コーヒーを求めるお客の顔ぶれの広さを感じ、コーヒー自体のおもしろさを知ったことが、開店にいたる道のりの始まりだった。 「元々、母が自営業で、自分も料理が好きだったから、店を持ちたいという思いはずっとありました」という井口さん。かねて抱いていた思いを形にするべく、徳島市内の自家焙煎コーヒー店の門を叩く。ホテルでは抽出のことばかり考えていたそうだが、専門店に入ってあらためて原料や加工などに触れ、自らも焙煎を始めた。 料理の感覚に通じるものがあったのだろう、自宅に簡易な焙煎機も購入したが、焙煎デビューは衝撃的なものだった。「最初に使ったときに、焙煎機のガス管が詰まっていたようで、炎がドラムの周りに噴き出して、前髪が全部焼けてしまった。それでもめげずに焼いたコーヒーはおいしくできましたが」と、カラリと笑って振り返る。ロースターとしてのはじめの一歩は、忘れられない記憶と共にスタートした。 ■コロナ禍でこそ発揮された小さな店の存在感 独立を目指して入った自家焙煎コーヒー店では、喫茶の料理や接客、豆の販売まで多岐にわたる経験を積んだが、「慣れてくると職場が楽しくて、長く居続けてしまいました(笑)」と井口さん。忘れかけていた初心を思い出し、開業にいたるころには15年が経っていた。 店を始めるなら地元の石井町でと考えていたとき、真っ先に浮かんだのが、田畑の中に立つ小屋のような物件。元はサンドイッチの店だったが、長らく空いていたのを気にかけていた場所だった。2020年にオープンした店は、わずか3坪のスペースに、焙煎機からエスプレッソマシン、キッチンにギフトの棚までコンパクトに配置。それでも、不思議と狭さを感じないのは、「窓の外の見晴らしがよくて、抜けがいいから風も通る。季節ごとに田んぼの景色も変わっていくのがいいんです」と井口さん。確かにこのロケーションは、ほかにない魅力の一つだ。 とはいえ、開店したのは、ちょうどコロナ禍が始まったころ。お客は見込めないかもしれない状況だったが、それでも「自分で店をやりたいという思いが先に立って。一日に5人来てくれたらいいなという気持ちで始めたんです」。すぐ横を通る国道沿いは自家焙煎のコーヒー店は少なく、当時、界隈ではテイクアウト専門店というのもまだ珍しい存在だった。それゆえ、はじめは「ここでコーヒー店ができるの?」と、暗に心配する声も少なくなかった。だが蓋を開けてみれば、道向かいの大型スーパーからの買い物帰りや、パート帰りのママが立ち寄るようになり、井口さんのカラッと朗らかな人柄も相まって、近隣の息抜きの場として定着。また、コロナ禍で飲食店が制限されるなか、戸外で本格的なコーヒーが飲めるとあって、医療従事者からも好評だったという。 「界隈ではエスプレッソマシンも珍しかったから、夏はアイスラテが人気になって。食べものの店だと目的が限定されるけど、コーヒーだと気軽さもあって、立ち寄る理由も広がりますね」と井口さん。肩肘張らず飲めるように、コーヒーの種類も軽快な酸味で飲み心地のよいクエイルブレンド、切れのよいビターな香味の深煎りブレンドに、シングルオリジン2種とシンプルに。豆の購入の際は、「味見だけしてもらってもいいんです。実際に飲んで、風味を感じてもらうのが一番わかりやすいですから」と、すべて試飲OKだ。また、徳島の名産の一つ、木頭ゆずを使ったアレンジコーヒーもここならでは。「柑橘果汁は入れすぎるとミルクが分離するので調合には苦心しました」というゆずラテ、さっぱりとした清涼感が魅力のゆずエスプレッソソーダと、温・冷の2つの味わいを楽しめる名物メニューだ。 ■世代を問わず日常に寄り添える場所を目指して 口コミでじわじわとファンを増やしていったが、開店1年が経つころ、地元の新聞で紹介されたことで人気が急上昇。SNSでも開放的なロケーションが話題になり、ときに行列ができることもあったとか。「当時は一人で切り盛りしていたところに、一気にお客さんが押し寄せて、思い描いていた接客ができなくなったんです」と振り返る井口さん。そんなときに店を支えてくれたのがスタッフの伊槻さん。井口さんの古巣である自家焙煎コーヒー店の常連だったことが縁で知り合い、今では頼れる相棒に。伊槻さん自身もロースターとして屋号を持ち、個人で豆の販売も手掛ける、いわば同業のタッグだ。心強い味方を得て、店も安定したことで、ドリップバッグやカフェラテベースなどのギフトアイテムも充実していった。 日々、顔を見せるお客のなかには周辺の農家の人も多く、ドライブスルーよろしくトラクターで乗り付けてコーヒーを買っていく姿も、ここならではの風景だ。一方、小中学生にとっても、この店はいまやおなじみの存在。学校や部活の帰りはもちろん、特に土曜は多いとか。子どもたちとは友達感覚で、最新のおもちゃやゲームの話をしたかと思えば、ご年配の方とは野球や健康の話が出たり、日々の話のタネは尽きない。 「自分の地元ということもありますが、お客さんの大らかさに助けられていますね。この曜日に来ると決まっている方もあって、そういう常連さんがいることで、こちらもホッと安心できるんです」。何もなかったこの場所にポツリと現れた小さな店は、今では界隈の拠り所として存在感は大きくなっている。「始めたころは1日5人と思っていたのが、すごい数のお客さんが来てくださるのはうれしい。開店から4年経って、思っていた以上に、店を始めてよかったなと感じます」 ■井口さんレコメンドのコーヒーショップは「にちにち珈琲店」 次回、紹介するのは、同じ徳島県三好市の「にちにち珈琲店」。 「店主の藤岡さんは、修業先の自家焙煎コーヒー店にいたときの元同僚。開業自体は彼女が先輩ですが、今も妹みたいな存在です。徳島県の最西部にあるお店は、街なかとは違うゆっくりとした空気が流れていて、コーヒーはいつ飲んでもほっとする味わいで、訪ねると元気をもらって帰ってきます。界隈では他にない本格的なロースターとして、地元でしっかり根付きつつあるすてきなお店です」(井口さん) 【クエイル珈琲のコーヒーデータ】 ●焙煎機/フジ ローヤル1キロ(半熱風式) ●抽出/ハンドドリップ(ハリオ)、エスプレッソマシン(ラマルゾッコ) ●焙煎度合い/中~深煎り ●テイクアウト/ あり(350円~) ●豆の販売/ブレンド2種、シングルオリジン2種。100グラム600円~ 取材・文/田中慶一 撮影/直江泰治 ※記事内の価格は特に記載がない場合は税込み表示です。商品・サービスによって軽減税率の対象となり、表示価格と異なる場合があります。
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