勝呂壽統、鮮烈デビューも急失速…巨人を放出された5年後にオリックスで日本一に【逆転プロ野球人生】
新人時代に数々の武勇伝
実は新人時代の勝呂は、いくつかの武勇伝を残している。春季キャンプでは、槙原寛己に対して、「おい槙原、トス・バッティングしようや」とおもむろに声をかけ、周囲を驚かせた。お互い同じ1963年生まれだが、かたや1年目のドラフト5位入団の新人、一方の槙原はプロ7年目のエース格である。その度胸のよさは開幕直後にも、巨人ナインを驚愕させた。 ある日、勝呂は戸田でヤクルトとのファームの試合に出場する予定だったが、寝坊して他の二軍選手を乗せたバスが出発してしまう。すると乗り遅れたルーキーは、なんとそのまま歩いて一軍が練習しているジャイアンツ球場へ向かい、「二軍の試合に間に合わなかったので一軍に来ました」と姿を現したという。しかも、すでに一軍の練習が終わりかけているところにひょっこり顔を出したのだ。この前例のない行動には首脳陣も怒ることを忘れて絶句。ベテラン捕手の山倉和博はのちに週べの自身の連載で、「二軍がダメなら一軍があるさという発想が出来る男に、私は初めてお目にかかった」なんて笑い話として振り返っている。「こいつはとんでもない大物か、とんでもない大馬鹿かどっちかだな」と山倉は24歳の強心臓男に期待したという。 そして、88年5月28日の広島戦。その時点で6勝0敗、防御率0.91、被本塁打0という絶対的エースの大野豊から、勝呂は延長10回にプロ初の決勝1号ソロアーチを放つのだ。それは大野がシーズン257人目で初めて打たれた本塁打でもあった。スポーツ各紙は伏兵のまさかの一発に「“不沈艦”大野が沈んだ」と大々的に報じ、無名の背番号38は監督賞の10万円も手にして、いちやく時の人となる。当時のゴールデンタイムに地上波テレビ中継していた巨人戦には、それだけのニュースバリューがあったのだ。 『週刊現代』88年6月25日号ではOBの堀内恒夫が、「第二の高田繁になれる!」と断言。グラウンド上で先輩たちに臆することなく対等の立場でプレーする勝呂の堂々たる態度と、アイドル化した最近の巨人選手らしくないひたむきなプレーを褒め、「これから10年、巨人の理想のトップバッターとして定着できる要素を備えた数少ない選手だと思う」とまで絶賛している。6月12日現在、3割5分近いハイアベレージに、勝利打点3つの勝負強さ。『週刊文春』では、日通浦和の中村国勝監督が勝呂の快進撃を語る。 「これぞというチャンスをものにしようという気の強さは、他の選手にないものがあった。日通浦和で初めてスタメンで出した試合も、よく打ったからね。今も、ここで打てなけゃ明日はないんだという目をしてバッターボックスに入っている。うちでレギュラーをとった時と同じような目をね」(週刊文春88年6月23日号) 単独で表紙を飾った週ベ88年6月20日号では、松本匡史との「新旧トップバッター対談」に登場。「一番ほしいのはゴールデングラブ賞。ああいうのを続けてとりたいですね」と明るい未来を語り、ともに遊撃を守る中日の立浪和義との新人王争いも話題となる。当時、勝呂と同い年で、よく食事に誘ったくれた吉村禎章がプレー中に味方野手と激突して重傷を負いチームに衝撃が走るが、“アジアの大砲”呂明賜や勝呂といった若い力が首位争いをする王巨人を牽引した。 移動中はお気に入りの爆風スランプをウォークマンで聴きながら、週刊誌を読んで気分転換。さすがに夏場には失速するも89試合で打率.283、3本塁打、11打点、10盗塁の成績を残し、9月26日には内輪だけでささやかな結婚式をあげた。オフはサイン会にも引っ張りだこのニュースター候補は、89年シーズンは「二番・遊撃」で初の開幕スタメン。すべてが怖いくらいに順調だった。