勝呂壽統、鮮烈デビューも急失速…巨人を放出された5年後にオリックスで日本一に【逆転プロ野球人生】
チームで居場所を失いオリックスへ
王監督に代わり、藤田元司監督が復帰した新チームでも、当初は勝呂が遊撃レギュラーと見られていたが、グアム・キャンプから続けてきた打撃フォーム改造が結果的に失敗。打撃の悩みが守備にも悪影響を及ぼし、開幕4戦目には川相昌弘に遊撃のポジションを明け渡す。しばらく併用されるも、やがて川相は堅実な守備としぶとい打撃で、藤田野球の申し子として一気にブレイク。さらに若いスピードスター緒方耕一の台頭もあり、勝呂は89年に70試合、90年はわずか20試合の出場とリーグ連覇したチームの中で居場所を失っていく。 同世代に先を越され、年下にも追い抜かれる。要はライバルたちとのポジション争いに負けたわけだ。右打ちを意識するあまり感覚が狂ったバッティングは打率1割台と低迷。プロ4年目の91年はわずか3試合の出場に終わり、1本のヒットも打てなかった。そして、勝呂はオフに熊野輝光とのトレードでオリックスへ移籍するのである。いわば、28歳で巨人に見切られた形となった。
だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない――。このとき、オリックスの監督は、勝呂が最も輝いていたプロ1年目にコーチとして接した土井正三だった。92年は守備中に味方野手と衝突して、右頬骨骨折で手術をするアクシデントに見舞われるも、移籍2年目の93年は心機一転「壽統」に改名。遊撃のレギュラーを掴み、96試合で打率.254と一時期のスランプからは復調する。 94年から就任した仰木彬監督も使い勝手のいい勝呂を重宝した。延長戦で緊急時のオプションとしてキャッチャーの準備を命じられると、「中学1年までは捕手だったし、(リトルリーグの)船橋リトルでは全国制覇もしてますからね」と嫌な顔ひとつ見せず出番を待った。試合出場に飢えていた勝呂は、仰木マジックの選手起用にハマり、「がんばろうKOBE」の95年は自己最多の117試合に出場。優勝チームの遊撃を守り、開幕戦ではロッテの伊良部秀輝から決勝アーチを放っている。リーグ3位の27犠打を記録するが、九番打者として「一番イチロー」につなぐのが勝呂の仕事だった。翌96年は日本シリーズで古巣の巨人と対戦。4勝1敗でオリックスが日本一に輝くが、勝呂は全5試合に途中出場。同じく高田誠や四條稔ら巨人二軍でくすぶっていた男たちが、古巣に対して意地を見せた。彼らは「元・巨人」ではなく、オリックス初の日本一メンバーになったのである。