『源氏物語』の時代は「一夫一妻制」だった? 男女関係におおらかな平安貴族の結婚制度
本当は一夫一妻制だった平安時代
一般に、平安時代の人びとは男女の性に対しておおらかで、貴族層では夫が同時に複数の妻をもつ一夫多妻制が公認されていたととらえられてきた。 ところがこれに対して、国文学者の工藤重矩のように、法制度上はあくまで一夫一妻制であり、夫は妻以外の女性を「妾(しょう)」という形で配偶していたにすぎないとする見方もある(『平安朝の結婚制度と文学』)。この場合の「妾」とは、いわゆる「めかけ」とイコールではない。「正妻以外の妻」「第二夫人・第三夫人......」に近い意味合いで、彼女たちが生んだ子供が婚外子扱いされることはない。 ここでの「妻」と「妾」の違いを「正妻」と「側室」のそれに置き換えることもできなくもないが、建前としては重婚は不可で、一時点で正式に「妻」を称することができる女性はあくまで一人に限定され、一夫一妻であったというところが、この見方のポイントである。 そして工藤は、平安期史料にみえる「嫡妻」「本妻」「妾妻」の語の違いについて、およそ次のように解説している。 男Aがまずはじめに女B子と結婚して彼女を「嫡妻」とした。いわゆる正妻である。ところが、子が生まれないので離別し、別の女C子と結婚した。この時点でB子は「もとの妻」ということで「本妻」と称されるようになり、C子が嫡妻となる。それでもなお子が生まれなかったのでAは新たにD子を娶った。この時点でAがC子と離別していなければ、D子は「妾妻」すなわち妾となり、離別していれば嫡妻となる。 とはいえ、平安時代の貴族たちの間で、実質的には一夫多妻の婚姻形態が横行していたことは確かである。この場合、夫人たちが揃って同居するということはなく、男はふだんは正妻(妻)と同居し、それ以外の夫人(妾)のもとへは個別に通うという格好を多くとった。ちなみに、正妻は邸宅の「北の対」に住むのが慣例だったので、しばしば「北の方」とも呼ばれた。
紫の上は妻だったのか、妾だったのか
『源氏物語』をみると、光源氏はまずはじめ、左大臣家の長女である葵の上と結婚する。葵の上は源氏の正妻であり、源氏は婿取婚スタイルで彼女の家へ通っている。関係が順調であればやがて二人は同居することになっただろう。 しかし、気が合わなかったので源氏の通いは間遠になり、その代わりに六条御息所や末摘花のもとに通ったり、空蟬や夕顔との逢瀬を楽しんだりすることになったのである。このうち、空蟬は人妻であり、夕顔とはゆきずりの恋だが、六条御息所や末摘花は源氏の「妾」とみなせなくもない。花散里や明石の君も妾とみることができるかもしれない。 問題は紫の上である。源氏が自邸で愛育した紫の上と契りを交わすのは、葵の上の急逝後だ。したがって、紫の上は葵の上に代わって正妻の座についたと思いたいところだが、『源氏物語』の作者は紫の上を正妻として明記することを慎重に避けている。 やがて女三の宮が源氏のもとに降嫁してくるのだが、彼女は明らかに正妻として迎えられている。女三の宮が皇女で、身分の高い女性であったからだ。この時点で、紫の上は明らかに「妾」である。しかし、女三の宮が出家して事実上源氏と離婚状態になると、紫の上は正妻格の待遇を受けるようになる。 一夫多妻的な形態がごく普通で、それをとくに不道徳なものとして咎める風潮もなかった時代だったとはいえ、女性の側からすれば、夫の愛を自分一人につなぎとめておきたいと思うのは、ごく当然のことであったはずだ。そんな平安朝の女性たちが抱える悩みを描き出したのが『源氏物語』だったとも言えるだろう。
古川順弘(文筆家)