〈球団新記録〉228セーブのロッテ・益田直也に『幕張の防波堤』小林雅英が伝えたこと「俺の記録を抜いてからにしろ、と言ってきたけれど…」
過酷なクローザーの重圧
小林雅英氏もその重圧をこう振り返る。 「現役時代、1年間は投げたすべての球を覚えていた。誰にどんな球を投げたか、カウントなどの状況。一球一球、覚えていた。打たれた球も抑えた球も。そして1年が終わったらリセットする。その繰り返しだった」 思い出深いゲームはやはり、セーブを挙げた試合よりセーブに失敗した場面だという。それはプロ3年目の2001年7月17日、本拠地で行われたバファローズ戦(当時は近鉄)。9対4と5点のリードで最終回を迎えた。楽勝ムードが漂っていたが、暗転した。この回、8失点。小林雅英氏は1アウトしか取れずに降板し負け投手となった。今でも忘れられない辛い想い出だ。 「あれはオールスター前、前半戦最後のゲームだった。点差もあって、油断していたというか、集中していなかった部分もあったと思う。不運な当たりもあったけどね。今でもハッキリと覚えています」
記憶に残るのは「セーブ失敗」
05年10月の福岡で行われたホークスとのプレーオフも忘れられない。勝てばリーグ優勝が決まるというゲーム(当時はプレーオフ優勝チームがリーグ優勝というルール)。4点リードの9回のマウンドに上がった。しかし、結果は一気に追いつかれて同点。試合は延長戦でサヨナラ負けとなった。数々のセーブと栄光を重ねてきたクローザーはともに、笑顔の思い出より辛い経験の方を今も胸に残している。つくづくストッパーとは辛いポジションだ。 二人は15年からの4年間、コーチと選手の関係で一緒の時間を過ごした。 「益田は丁寧に野球と向き合っていた。練習をよくしていました。ウェートとかはあまりしないけど、とにかく走っているイメージ。無事是名馬というけど、彼はまさにそんな感じで故障しない。タフでした。身体のケアもしっかりとしていて、食事にも気を使っていたしトレーナーさんを雇ったりしていた。でも大前提として産んでくれた親に感謝しないといけない」
一度だけ伝えた“苦言”
抑えとして様々な心得をアドバイスした。セーブに失敗した時に足早に帰宅する姿にこう苦言を呈したこともある。 「打たれた時にすぐに帰るな。いつもと同じようにしておけばいい」 勝っても負けても抑えても打たれても心を乱すことなく同じリズム、雰囲気を作りだすことが長いシーズンを戦う上で大事だということを伝えたかった。確かに05年、プレーオフで打たれて敗れた夜、小林雅英氏は遠征先の宿舎の自室でふさぎ込むのではなく、いつも通り食事会場に現れ、普段と同じように仲間たちと会話をしていたことが印象深い。 そんな小林雅英氏から益田へと球団記録は更新された。次に待つ大記録は名球会入りの条件でもある通算250セーブだ。小林雅英氏はその後移籍したジャイアンツとMLBで挙げたセーブを加えて日米通算234セーブ。名球会入りまで残り16セーブというところでユニホームを脱いでいる。名球会ブレザーの採寸も行っていたが、最後その数字に惜しくも届かなかった。だから教え子でもある益田には期待を寄せている。 「それはやっぱり大きなステータスですから。そこを目指せるのだから目指して欲しいと思う」
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