日本で初めて「鶏の唐揚げ」を出したレストラン/「料理は科学」3男社長、大震災で知った客の支え~三笠会館の事業承継前編
漫画家・手塚治虫ら著名人に愛されてきた銀座の老舗レストラン「三笠会館」(東京都中央区)。1925(大正14)年に氷水屋として歌舞伎座前で産声をあげ、2年後に食堂へ転身。鶏の唐揚げを初めてメニューに載せたとされ、自社ビルの各階に和洋中の多様なレストランを配置した「多業態展開」に乗り出すなど、革新的なアイデアを生み出してきた。4代目の谷辰哉代表取締役社長に、創業家の三男として生まれ、事業を承継するまでの道程について聞いた。 【動画】なぜ事業承継が大切なのか専門家に聞いた。
◆料理は勘ではなく、科学であり物理現象
――幼少期から「料理好き」とのことですが、やはり家業の影響でしょうか? 私が子どもだった1980年代は、“モーレツに働く”ことが良しとされた時代。 父も非常に多忙で、ほとんど家に帰ってきませんでした。親戚や親しい人たちが家に出入りしてご飯を作ってくれて、見よう見まねで台所に立ったのが始まりです。 焚火とか火が好きで、今も肉を焼くのにはこだわりがあります。料理は勘ではなく、科学であり物理現象。何事もじっと観察して客観的に判断する子どもだったので、親和性があったのかもしれません。 事業承継を見据えての教育は全くありませんでした。 私は第三子で、自分自身を含め、誰しもが家業を継ぐとはこれっぽっちも考えてきませんでした。 慶應義塾大学法学部に入学し、3年生で普通に就職活動をしていました。
◆「お金から遠いところで」
――卒業後はアサヒビールに就職されています。なぜ飲食業界を選ばれたのでしょうか? ちょうど1990年代の後半にかけてバブルがはじけた頃で、世の中が暗いムードに沈み、テレビでは「お金で失敗した」というニュースが散々流れていました。 それで「金融や保険ではなく、“お金から遠い”仕事に就きたい」と考えたのです。 とくに「食」なら、嫌な思いをする人もそういないだろうと。ビールメーカーを選んだのは、お酒が好きだったわけではなく(笑)、食品業界のなかでも給料が高水準だったという現実的な理由です。