【昭和の映画史】『生まれてはみたけれど』が描いた 昭和初期のサラリーマン家庭からみる不安定な時代
■映画や銀幕のスターの軌跡をみれば昭和史がみえる 来年は昭和が始まって100年である。昭和は長かった。そして様々な出来事があった。そんな昭和の時代と世相を映してきたのが映画である。テレビがなかった時代、映画は最大の娯楽として時代を反映し、人々を惹きつけてきた。そして映画界もまた、昭和の戦争に巻き込まれたのである。 時代を代表する様々なスターや名監督の人生など、映画をめぐる人間模様も興味深い。そんな昭和の映画について語り始めるのにふさわしいのは、小津安二郎の初期の名作、特に『生まれてはみたけれど』だろう。 小津は黒澤明、溝口健二、成瀬巳喜男などと並ぶ日本を代表する映画作家で、独特の構図やカメラアングルが世界的に高い評価を得ている。その高評価が、むしろ敷居の高さになっている面もある。 『生まれてはみたけれど』公共図書館で視聴できるほか、U-NEXTで配信されており、DMN TVでレンタル視聴もできる。ぜひ一度観ることを勧めたい。戦争に向かっていった昭和初期の全体像を、今日の我々が想像するのは難しい。この映画は、その手助けをしてくれる貴重な作品でもある。 昭和初期と言えば不況、エログロナンセンス、戦争がキーワードだ。しかし小津が描いたのは、それらとは違う都市市民の近代的な生活である。その恵まれた中流生活から、同時進行していた相反する他の出来事はどう見えていたのだろうか。 裕福で教育熱心な家庭で育った小津は、中等学校時代から映画に熱中する。父親は当時、やくざな仕事と思われていた映画制作に関わることに反対した。だが親戚の伝手で関東大震災の直前に、松竹キネマ蒲田撮影所に入ることができた。 スタートは撮影助手で、助監督を経て時代劇『懺悔の刃』で監督デビューする。以後は社の方針でナンセンス喜劇を量産した。やがて社内での評価も上がり、スターを起用した作品を撮れるようになる。 そして昭和7年(1932年)、『生まれてはみたけれど』で小津調の原型を見せ、キネマ旬報の一位に選ばれた。実はこの3年前、小津は『大学は出たけれど』を制作している。昭和4年(1929年)と言えば、ニューヨーク証券取引所における株価大暴落によって、世界恐慌が起きた年である。 その2年前、日本ではすでに昭和金融恐慌が起きていた。関東大震災後、経済混乱に対応するために発行した震災手形が、膨大な不良債権と化して金融不安が広まった。 そんな中、衆院予算委員会における蔵相の失言がきっかけとなって、取り付け騒ぎが起きたのである。そして時代の寵児だった鈴木商店と、融資していた台湾銀行が倒産した。それがようやく収まった時に、今度は世界恐慌が襲ってきたのである。 『大学は出たけれど』は、エリート層にもかかわらず不況下で就職できない若者を、当時の代表的二枚目だった高田稔が演じた。『サンデー毎日』を指差して「俺は毎日が日曜日なんだ」と告白する場面など、ユーモアも交えつつ当時の世相を描いている。 婚約者役は昭和を代表する人気女優で、のちに『サンダカン八番娼館 望郷』でベルリン国際映画祭主演女優賞を受賞する田中絹代である。当時は可憐な娘役だった。題名の『大学は出たけれど』という言葉は流行語にもなった。ただ、この映画のフィルムは11分しか残っておらず、VHSしか存在しない。 『生まれてはみたけれど』が制作された昭和7年(1932年)は、満州国成立の年でる。その後の小康状態をへて、5年後には日中全面戦争が始まる。今から見れば危機の時代だった。 舞台は東京郊外の新興住宅地で、夫婦に少年二人の四人家族の物語である。二世帯三世代同居が多かった当時では、時代の先をいく核家族だ。父親はサラリーマンで、一家は最近、重役の自宅近くに引越したのである。 兄弟は、重役の子どもを含む学校の悪ガキたちと喧嘩しつつも、次第に仲良くなり、互いに父親の自慢話をする。兄弟二人は「うちの父ちゃんが一番偉い」と自慢した。 しかし、ある日のこと。重役の岩崎宅で16ミリフィルムを観る機会があり、そこに父親の情けない姿が写っていたのである。父親は岩崎にお世辞を言い、動物の真似までして笑わせ、機嫌を取っていた。 兄弟は落胆して食事も摂らずに抗議する。やっと夕食を食べて寝たのだが、その寝顔を見ながら、父親は「俺のようになるなよ」とつぶやくのだった。当時の人々はこれを観てどう思っただろうか。 まだ職人や家族経営の自営業が大半だった時代、郊外に家を建てたサラリーマン家庭は恵まれた少数派だった。社会を席巻していた不況の影響も、あまり受けなかったのである。都市市民として消費文化も享受できたはずだ。 この頃、東北の農村は娘が身売りされるほど困窮していた。しかし、サラリーマンの妻は労働から解放された憧れの専業主婦で、流行の服を買う余裕もあったのである。教育にも熱心だった。その背後には残酷なまでの階層分化と不公平があり、それが草の根軍国主義を育て、戦争への道を決定づけたという説もある。 サラリーマン家庭は、多数派だった自営業や職人の家庭とは異なり曜日の観念を持ち、週末は一家でレジャーを楽しんだ。これは新しい生活形態だった。東宝の小林一三は、東京の丸の内界隈に映画館や劇場を作り、斬新な娯楽空間を創出した。 先見の明に恵まれていた小林は、週末に繁華街に繰り出す大学生やサラリーマン家庭の旺盛な消費意欲に応えたのである。他方、旧来の娯楽空間である浅草にはエノケンこと榎本健一が君臨。丸の内の古川ロッパと覇を競い、戦争への不安から逃避するように、お笑いが東京を席巻した。今も日本のお笑いにつきまとう、どこか現実逃避的な気分の原型がここにある。 しかし、組織に縛られ上役に気を遣い、仕事に対する誇りもないサラリーマンは、知識人からも労働者層からも批判的に見られていた。『生まれてはみたけれど』は、一見恵まれたサラリーマン家庭に潜む矛盾を描き、時代の不安定さを暗喩している。一方で、時代や国境を越えた普遍的なテーマでもある。 子どもたちの遊びは兵隊さんごっこで、教室には「爆弾三勇士」という言葉が掲げられている。将来の夢は「中将!」だ。やがて、彼らの恵まれた生活にも影が差してくる。 小津自身も、日中戦争の開始で招集。招集解除で帰国するも、太平洋戦争開戦後に軍報道部映画班員として、シンガポールに派遣された。そこで接収したアメリカ映画を観て、小津は日本が負けることを確信、そのまま敗戦を迎えた。
川西玲子