米国のゲイリブに憧れて ゲイとして生活感のある暮らしを手に入れたいま
人生をともに歩んだ幾人かのパートナーが気付かせてくれたこと
本業の面でも、カズさんはシャンソン歌手として都内の有名クラブでソロコンサートを開いたり、大塚さんも芸術家としてファイバーアートから、様々な材料を使ったオブジェ作りへとスタイルを移行し様々な個展を催すなど、徐々にその実力が認められていった。全てが順風満帆に進んでいるように感じていた88年、突然カズさんがエイズに感染していることがわかった。 「僕自身が不安な気持ちになったことはもちろん、当時エイズはまだ謎の病気で、エイズにかかった女性 の顔が写真週刊誌にアップで載ったりしていた時代だった。こんな状況でもし新宿二丁目にエイズ患者 が出たなんてことがわかれば大変なことになるという、すごい恐怖感があったね」 都内で唯一エイズの診察を行なっていた都立駒込病院にも薬一つ入ってきていない状況下で、二人には何をすることもできなかった。そうしている間にも、カズさんの病状はどんどん悪化していった。 「短かったけれど、僕の人生はとても幸せだった。タック(大塚さんのニックネーム)とも出会うことができて一緒に暮らせたし、もう思い残すこともない。どうかそのことだけは忘れないでほしい」入院前日にカズさんが発した言葉は今も大塚さんの脳裏に焼き付いている。
エイズ感染を知ってから半年もせず、カズさんは自身の歌唱のごとく一人大空へと飛び立っていった。地上に残された大塚さんは悲しみに暮れ、枕を濡らし続けた。しかし数カ月後には六本木アクシスギャラリーでの大規模な展示が控えていた。気持ちの整理を付けるかの如くアトリエにこもり一人きりで作品制作に没頭した。その間、店には大塚さんを心配した友人達が交代で入り、切り盛りをしてくれた。2カ月後に完成した6mを超す大きさのその作品には『祝祭のイメージ』というタイトルを付け、ど真ん中にはカズさんをイメージした象のオブジェを配置した。
「これまでに様々な作品をつくり、それぞれにとても思い入れは深い。でも忘れられない作品という意味 ではカズが亡くなった後につくったものが一番かもしれない。僕の人生の中で、あれほどの悲しさを味わうことはもうないと思うよ」