なぜ『きみの色』を観て“言葉にしたくない”と感じるのか? 山田尚子の演出意図から考える
具象から抽象へ
映像表現的にも、本作は「具象から抽象へ」の転回が見てとれる。時にフォーカスを飛ばして撮影処理を入れて、色しか認識できないようなショットがある。山田監督は、レンズを意識した演出が目立つ作家で、被写界深度の浅い映像は特徴があり、今作でもそれは健在だが、この作品には画面全体がさらにフォーカスアウトさせて色しか認識できないようなショットも目立つ。時に謎にオートフォーカスのように一瞬だけピンがボケる挙動をするショットも増えている。これは単にカメラがそこにあることで実在感を強調するだけではないように筆者には思える。カメラとレンズには現実を切り取るという特性があるが、それだけでない。ピンボケさせれば世界を抽象化できる。今回の映画では、世界を抽象化するためのツールとしてレンズ効果を使ってきている(※6)。 過剰にピンぼけの映像は具象性を薄れさせ、色しか認識できなくなる。しかし、その色がキレイなら目を奪われる。要するに、映画を鑑賞するというのはそれだけで充分に楽しいことなのだ。
芸術も娯楽も、無駄に時間を費やす喜びである
そのように意味の読み取れないものに時間を費やすことを無駄と感じる人もいるだろう。特にコスパ重視の現代では、意味のないものは無駄と切り捨てられがちだ。しかし、娯楽にせよ芸術にせよ、文化に触れるというのはそういう無駄に時間を使うことだ。 『きみの色』は大変に軽やかな作品だ。しかし、意味を見出そうとすると不安に駆られるし、何が面白いのか分からなくなるかもしれない。でも、絵画を鑑賞することは、観ること自体が楽しいから、音楽を聴くことは音自体が楽しいから、というのは、本来だれでも知っていることのはずだ。『きみの色』の面白さに気づくのはそういう「ノリ」に気づくだけでいい。 愛が描かれていると解釈したい人はそう解釈してもいいし、友情だったと解釈しても構わないのだが、この映画にとって重要なのは、言葉の意味に回収されない自由な状態であること自体が描かれていることだ。山田監督は常にその流動性を肯定する。日常の他愛もないことがどうしようもなく楽しいことを描いた『けいおん!』の時からそれは一貫している。 色がキレイ、音が楽しいということ。それは深遠な人間存在を描いたり、社会の矛盾を暴く大きな意味を持つなどの物語に対して、決して劣位に置かれない。むしろ、そのような感性の最小単位を忘れてしまわないために、この作品が存在することは、物語以上に「大きな意味」が現代人にとってあるとも言える。そんな重大なことを軽やかに描ける稀有な才能は山田尚子なのである。 参照 ※1. 「一万字スペシャル対談 山田尚子×牛尾憲輔」、文=宮昌太朗、『CONTINUE MOTION GRAPFHIC』Vol.84、太田出版、P13 ※2. https://uryu-tsushin.kyoto-art.ac.jp/detail/1276 ※3. 『記号論への招待』岩波書店、池上嘉彦、P7 ※4. 『記号論への招待』岩波書店、池上嘉彦、P9 ※5. 『SWITCH』2024年9月号、「DIRECTOR 山田尚子[弱さの中にある強さ]」、スイッチ・パブリッシング、P79 ※6. 撮影監督の富田喜允のインタビューを読むと、撮影処理前と後でショットの抽象性が増しているのがよくわかる。https://blog.adobe.com/jp/publish/2024/08/23/cc-video-aftereffects-interview-kiminoiro ※ 千葉雅也『センスの哲学』文藝春秋 ※ 水谷誠『キリスト教とことば』https://doshisha.repo.nii.ac.jp/record/20028/files/003067020001.pdf
杉本穂高