なぜ『きみの色』を観て“言葉にしたくない”と感じるのか? 山田尚子の演出意図から考える
物語のための映像か、映像のための物語か
映画を作る際、映像に対するスタンスはざっくりと2つある。物語を語るために映像を「手段」とするか、映像自体を作りたいために物語を「口実」とするか。どんな作家もこの2つの間を揺れ動き、極端にどっちか100%という作家は少ないが、だれでも偏りというものはある。山田監督は、明らかに後者寄りだ(ちなみに近年の新海誠は前者寄りになってきた)。 本作には、言葉に還元可能な物語要素が薄い代わりに、100分の映画を満たすのは「色」と「音」だ。山田監督が描くのは物語ではなく、映像を構成する最小単位である「色」、そして「音」の美しさである。「色」を見てキレイだと感じる、「音」を聞いて心地よい気分になる。それには物語という言葉の固まりに還元可能な意味はない。もっと原初的な感覚だ。 だから、『きみの色』を楽しむためには、意味を解釈する能力はさほど必要ない。「あのショットは~のメタファーだ」とかも考えなくてもかまわない。むしろ、そういうメタファー的なことから離れようとしている作品だと思う。メタファーというのも、一種の言葉であり、映像に隠された言語的な意味を見出そうとする行為なのだから。 むしろ、必要なのは「色」を見てキレイと思う感覚と、「音」を聴いて楽しいと思う感覚だ。色や音の持っているリズムに乗るというか。これが得意なのは、大人よりもむしろ子どもだろう。子ども時代は誰でもそういう楽しみ方をしていたはずだ。 「それが何のためなのか」という意味を考えることを一旦横に置いて、それ自体の面白さに乗っていく。クライマックスの演奏会でシスターも生徒も踊りだすように、ノリに乗っていくことがこの映画では奨励されている。 意味を語る物語は、映画が生まれた時には存在せず後から導入されたものであって、映画は本来こういうものである。色がキレイで音が心地よければそれだけで映画として成立するという確信、あるいは信頼が山田監督にはあるのだと思う。 各種のインタビューを読むと、どうも吉田玲子の書いた脚本段階では、主要3人の家族関係などのより明確なドラマがあったようだが、山田監督が絵コンテの段階でその要素を削ったようだ。これは家族についての映画とか、これは青春ラブストーリーとかいったような具象的な物語に極力回収されないカタチで映画を成立させようとしているのだと思われる。