バービーと同棲後、29歳で初めて選挙に行った僕が「友人と政治の話をしない」理由を考えた
「なぜ、僕は友人と政治の話をしないのだろうか」
職場や友人との集まりなど身近なコミュニティで、政治の話をしている様子を見かけることはほとんどない。しかし、SNSなどの匿名性が高いコミュニティではさまざまな主張を大勢の見ず知らずの人が発信している。 かくいう僕自身も似たようなものだ。リアルな場ではこういった話をしないのに、今こうしてつらつらとこんなエッセイを書いているのだから。なんだか不思議だと感じる。 「なぜ、僕は友人と政治の話をしないのだろうか」 ぼんやり考えてみると、2つの仮説に辿り着いた。意見が明らかに異なった場合、その議論を双方にとって心地よく着地させられる自信がないこと。そして、僕の知識不足のせいで議論が成立しないことが怖い。やってみなければわからないことではあるが、触れてはいけないような風潮のあるテーマだからこそ余計にハードルが上がってしまう。 しかし、先日の選挙を通じて、友人と政治の話をしてみたいと思った。自分の子だけではなく、日本の子どもたちの将来を考えるようになったからなのだろうか。直接的な政治の話でなくても、僕の周りにいる大切な人たちが日々の生活の中でどんなことを求めているのか、何を考えているのかなど知りたくなった。 もちろん意見が分かれることだってあるだろう。全てにおいて同じ考えを持つ人なんてほとんど存在しないはず。意見が違ってもいい。僕の知識が乏しくて恥をかくかもしれないけれど、それでも話したいし聞きたいと思った。
芸能人のSNSでの政治的発言を見て…
そんなことを考えてこのエッセイを書き進めていた矢先、とある芸能人の方が、政治に関するコメントをSNSにアップしたところ、賛否を呼んだというネットニュースを目にした。僕は気になってしまい、SNSでそのニュースに対する反応を見漁った。 誰かを傷つける主張や、影響力を悪用する発信はもちろんあってはならないと思う。発信の内容については、今回はあえて棚に上げさせてもらうが、僕が気になったのは、有名人が政治にまつわる発言をしたこと自体を否定するコメントがあまりにも多かったことだ。関係のないところに飛び火させて、その人の過去や周囲の人までも否定するようなコメントが目立ったことに大きな違和感を抱いた。 発信内容が自身の信条と異なる場合に、議論を深める目的で異を唱えることは民主主義において必要だと思う。しかし、発言したこと自体に異論を唱え、言論を奪うことはあまりにも乱暴で建設的ではないのではないか。“政治の話題はタブー”という価値観を持っている人たちが、そのような行動をとるのだろうか。そして、政治に関する会話は本当にタブーなのだろうか。 もっともっとフランクに、政治について、選挙について話せるような社会であるほうがいいのではないかと思う。少なくとも僕は、さまざまな立場からそれぞれの視点であふれ出る思いや考えを見聞きしたい。お互いの意見をぶつけ合って議論したいわけではない。ただ対話がしたいだけ。 社会の情勢が不安定で、世界ではこの今も戦争が起こっており、哀しくも平和とはいえない現代。だからこそ議論すべきことも大いにあるだろう。どこか遠い世界にあって自分ごと化しにくいけれど、政治は自分たちの生活に深く関わる大事なことだと思う。結婚や子どもの誕生を経て、今まさに実感している。 緊張せずに穏やかに会話できるような、身近な小さいコミュニティから始めてみたい。まずは幼馴染に連絡をしてみようかな。近所のスナックのママと話してみようかな。気持ちよさそうに眠る子どもの寝顔を眺めながら、そんなことを考えた。
つーたん(会社員)