ご存知ですか?東京五輪誘致の都知事が関与 幻の“手賀沼ディズニーランド”
東京五輪ボートの競技会場構想がきっかけ 安井・元都知事とつながる
手賀沼と東京五輪は無関係のようにも思えますが、手賀沼の観光開発は東京五輪抜きでは語れない歴史があります。 千葉の農村だった我孫子が観光地として注目されるようになったのは、1896(明治29)年に日本鉄道土浦線(現・JR常磐線)が開業し、我孫子駅が開設されたことがきっかけです。東京都心部から汽車で1時間。東京から近く、手賀沼をはじめ多くの自然が残る我孫子は、文人や大学教授など、多くの知識人・富裕層が別荘を構える観光地として発展していきます。 戦後、我孫子に集客施設をつくって、さらに人を呼び込もうとする計画が持ち上がります。そのために手賀沼に計画されたのが、競艇場でした。当時、千葉県の千葉・船橋・柏・銚子には競馬場、松戸には競輪場、船橋にはオートレース場が開設されており、多額の事業収益をあげていました。また、ファンが多く来訪することで商業振興にも一役買っていました。そうした事情から、我孫子の手賀沼にも競艇場を誘致し、地域の活性化と行財政への貢献を考えたのです。 しかし、競艇場を設置しようと考える行政に対して、住民は猛反対。町を二分する争いになりました。結局、選挙で反対派が勝利したことで、競艇場計画はご破算になります。 その後、手賀沼ではレジャーランドの建設を模索しますが、東京五輪の開催が決まると、手賀沼をボートの競技会場にする構想が浮上したのです。結局、ボートの競技会場は埼玉県の戸田に決まりますが、我孫子と東京都知事とを結んだのは、東京五輪という国家の一大事業だったのです。
親会社の経営不振、汚職事件から計画頓挫に
五輪のボート競技会場の誘致運動をきっかけに、手賀沼の観光開発の機運は再び盛り上がりを見せます。そこで出てきたのが、“手賀沼ディズニーランド計画”でした。 「戦後、手賀沼一帯の別荘は相続税などの関係で次々と売却されてしまい、かつての面影は薄れていました。そうした事態に、行政は衰退を食い止めなければならないと考えていたのでしょう。だから、競艇場や五輪競技会場を誘致して、なんとか地域を振興させようとしていました。特に“手賀沼ディズニーランド”は、地域に大きく寄与するとして議会でもずいぶん議論されたようです。残念ながら、資料はほとんど残っていませんので詳細不明の部分も多いのですが、“手賀沼ディズニーランド”が我孫子振興を目的にしていたことは間違いありません。」(辻さん) “手賀沼ディズニーランド”の建設地は、我孫子市のみならず柏市や沼南町(2005年に柏市と合併)にもまたがる壮大な計画でした。行政は積極的に誘致を進めましたが、地主からの協力を得られなかったこともあり、計画は暗礁に乗り上げます。 計画が停滞している間、全日本観光の親会社だった朝日興業土地に異変が起こります。朝日興業土地が運営していた船橋ヘルスセンターが、経営不振に陥ったのです。また、朝日興業土地の汚職事件も露見し、“手賀沼ディズニーランド”は頓挫してしまうのです。