「母が死んでほっとしました」原爆を生き抜いた「ヤングケアラー」がいた…いまだ「被爆者」に認定されず
しかし、その苦しみは認められない
松尾さんの母は1957年、約2年の闘病の末に50歳でこの世を去った。亡くなる前、長崎大学病院に入院した。5、6人の医師が取り囲んで検査する様子は「まるで実験道具」にされたように見えた。「原爆病」だと告げられて、退院後も日々の経過を手紙で送るよう求められた。治る見込みはなく、痛み止めを飲んで耐える日々。母は毎日、「もう殺してください」と、手を合わせていた。 「母が死んで、ほっとしました。ようやく母ちゃんが楽になったー、って。寂しいっていう気持ちもなかったです」 松尾さんはその後、洋服の生地を売る店で働き、見合いをして24歳で結婚。松尾さんの生家で夫と暮らしながらクリーニング屋を経営し、息子を2人授かった。幸せをかみしめる日々だったが、病は松尾さんを解放してはくれなかった。 48歳の時に乳がんが見つかり、以降、手術を3回受けた。皮膚がんも10回ほど患い、下まぶたに腫瘍ができた時には失明するのではないか、と恐れた。重い貧血は60歳まで続き、病院に行くと医師や看護師に心配されたが、そのつらさにはもう慣れ切っていた。 「被爆者」の証ともいえる被爆者健康手帳を持っていれば、医療費の自己負担分が無料になる。健康管理手当や介護手当など、総合的な支援も受けられる。 ところが、彼女は「被爆者」に認められていない。「原爆病」と指摘されて苦しみながら逝った母も、今の制度では援護対象から除外されているのだ。この原稿の中で、彼女たちのことを一度も「被爆者」とは表現していないのはこのためだ。 長崎で原爆を経験し、病を繰り返してきた松尾さんは、なぜいまだに「被爆者」として認められないのか。スローニュースでは詳しく報じています。 筆者:小山 美砂(こやま みさ) 1994年生まれ。元毎日新聞記者。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞。2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続ける。
小山美砂