「母が死んでほっとしました」原爆を生き抜いた「ヤングケアラー」がいた…いまだ「被爆者」に認定されず
原爆が生んだ「ヤングケアラー」たち
松尾さんは、いま社会問題化している「ヤングケアラー」だったのではないか? インタビュー中、そんな考えが浮かんできた。 こども家庭庁によるとヤングケアラーとは、本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っている子どものことを指す。勉強や部活、友人との他愛ない時間など、本来享受できたはずの「子どもとしての時間」と引き換えに、家庭内のケアを担っている子どもたちのことだ。 その存在に光が当てられて支援の必要性が議論されるようになったのは近年のこと。政府は2024年6月、「子ども・子育て支援法」を改正して支援に務めるべき対象に初めてヤングケアラーを明記した。このような子どもたちは以前からいたはずなのに、サポートする対象としてこれまで認知されてこなかった。 松尾さんが、当時を振り返って「大変だと思ったことはない」と言うのも、その負荷に気付くための視点が社会に存在しなかったためではないだろうか。 原爆被害者の家族(特に子どもたち)がどんなケアを担わされてきたのか、この点を掘り下げた調査を筆者は見つけることはできなかった。 しかし、朝日新聞社が1967年に刊行した『原爆・五〇〇人の証言』の中に、こんな証言があった。広島原爆で高等女学校への通学途中に被爆した女性は、被爆から4日後に母親と再会。ところが、ひどいやけどを負っていた母親は半月しか命が持たなかった。 〈母が死んだあと、弟たちの世話をしなければならず、食料の配給など、近所の人たちに頼んで通学していましたが、苦情が出て、とうとう学校をやめました。あのころは、自分のことだけで、みんな精いっぱいだった〉 詳細は記されていないため不明だが、父親は出征中で帰還していなかったようだ。彼女もまた、原爆が原因で「ヤングケアラー」になっていた。 広島への原爆投下当時12歳だった女性は、一家そろって自宅で被爆。母は寝たきりとなり、姉は1年足らずで他界したため、以降は「家事一切が私の肩にのしかかってきました」という。 Webサイト『NHKアーカイブス』で公開されている手記には、次のようにある。 〈13歳の夏以降、私は一家の主婦となり、弟の入学式にもオカッパ頭の私が付き添いました。この時は参列したお母さん方からジロジロ見られて恥ずかしい思いをしました。このころから、学校を休みがちになり、昭和22年(1947年)の学制改革で誕生した中学校には結局一度も登校できませんでした。というのも、家事の忙しさとともに、何とも言えない倦怠感(けんたいかん)や貧血によるものか立ちくらみなどが再々起こったためでした〉 肉親を失って「原爆孤児」となった子どもたちも、自分たちの力で生きていかねばならなかった。 広島で被爆後、大病を患った父母を続けて失い、兄と2人で自活した少年が、『生きる―被爆者の自分史― 第六集』(原爆被害者相談員の会・被爆者の自分史編集委員会、2022年)に体験を書き残していた。兄は働いて生活費を稼ぎ、家事のすべてを少年が担った。そこには、涙ぐましい努力の跡が見て取れる。 〈ご飯は炊飯器で炊き、おかずはプロパンガスでつくりますが、母がいたころは時々焼き飯をソーセージ、玉ねぎ、卵を入れてつくったくらいで何も習っていませんでした。きゅうりなますを酢と砂糖、醤油を入れて作ったり、アジを直接プロパンにアミで焼いたため外は焦げるが中は生のままだったりと四苦八苦していました〉 〈兄からお金をもらい買い物をしたり、電気代、新聞代などを支払っていましたが、安月給でしたのでしょう。時々、手持ち金がなくなり買い物ができません。(中略)ある時、番茶が無くなり親戚へお茶をもらいに行くと、出し殻を干していたのを使うように言われ、新しいお茶をもらうことができませんでした。悔しくて情けなかったので帰るとすぐに捨てました〉 例に挙げてきた「ヤングケアラー」たちはみな、子どもたち自身も被爆者でありながら、家族の介護や家事を請け負っていた。自らもいつ病になるかわからない不安を抱えながら、あるいは実際に体調不良に苦しみながら、その生活を続けなければならなかった。 なぜ被爆者の子どもたちが家事や介護を担わされたのか? 原爆被害の本質は、ここにある。原爆放射線の影響は解明されていない部分もあるものの、被爆直後の下痢や嘔吐といった急性障害に加え、数年後、数十年後に重い病気を発症する晩発性の影響が指摘されている。日常生活が困難になるほどの病気になるおそれがあり、多くの被爆者が命をも奪われた。原爆後の「ヤングケアラー」の存在は、この事実を改めて思い起こさせてくれる。