「母が死んでほっとしました」原爆を生き抜いた「ヤングケアラー」がいた…いまだ「被爆者」に認定されず
次々病に倒れていく
翌日、松尾さんのからだにはひどい発疹が出た。皮膚が赤く腫れあがり、ぶつぶつとできものがからだ全体にできた。その他の不調は覚えていない。しかし、小学3年生になると急に具合が悪くなってきた。松尾さんは当時をこう振り返る。 「起き上がりきらんのですよ、座ることさえできない。ごはんを食べる時なんかも、布団を重ねてそれにもたれるようにして、父や母が口に食べ物を入れてくれました。いつも横になっているような感じで、学校にも行くことができませんでした」 ひどい貧血状態にあったと思われる。しかし、病名は誰も聞かせてくれなかった。小学2年生になったシンコちゃんも、同じような病と闘う日々を続けていた。母親たちはそれぞれの家を行き来し、似た症状に苦しむ互いの娘を見舞った。ある日、シンコちゃんの母親は枕元で「こがん病気の、この頃多か」と話していた。 どれだけ療養していたのか、はっきり覚えていない。 「だけど、床を上げて外に出た時、ものすごく外が懐かしかったですね。近所の子どもたちに会えるのも、すごく久しぶりという気がしました。シンコちゃんはまだ悪いのに、自分はこないして起き上がれたな……と思いましたね」 松尾さんよりも症状の重かったシンコちゃんは入院することになり、そのまま息を引き取った。病名は白血病だったという。まだ幼かった松尾さんはその死をよく理解することができなかったが、シンコちゃんの妹たちが泣いている光景はよく覚えている。いつも遊んでいた友達がいなくなってしまった、という寂しさが胸に広がった。 松尾さんが回復すると、今度は母が倒れた。中学2年生になる頃、母は体調によって寝たり起きたり、という状態になった。具合が良くなれば畑に出て、また数日たてば悪くなって寝る。松尾さんは、学校を出ると一目散に母のいる畑へ向かい、そのまま仕事を手伝った。母は、骨がんに侵されていた。
看病に、家事に……15歳の少女に降りかかった負担
「母はひどお苦しみました。それはそれは、痛がっておりましたね。痛みのある太ももを伸ばして、私に『足を捕まえとけ』って、言いよりました。少しでもビクッと動けば、痛いそうなんです。その後、頭の方にもみかんくらいの大きさの腫瘍ができて、それも痛がりよりました」 松尾さんは看病に追われるようになる。夜中であろうと痛がるので、母が眠れるように足を押さえてあげた。頼れる家族は、誰もいない。父も結核を患って入退院を繰り返していた。乳飲み子を抱える一番上の姉が家にいたが、母との折り合いが悪く、家のことはほとんどしなかった。もう1人の姉と兄は、結婚や仕事ですでに家を出ていた。 よって、家事の一切が中学生の松尾さんに降りかかってきた。しかも、4つ下の妹とまだ赤ん坊の姪の世話、そして病に倒れた母の看病まで担わねばならなかったのだ。 「カレーライスはどうやって作ると?」 「そうめんはどうやって湯がくと?」 近所の人に聞いて回っては、なんとか家族を食べさせるための食事をつくった。しかし、まだ子どもと言える年齢で経験もない。 「ろくなものを食べさせていませんでしたよ……」 学校から帰ると料理をし、風呂をたく。机に向かって勉強をする時間は、とても取れない。五右衛門風呂に薪をくべる時の明かりを頼りに、木切れで灰に字を書いて覚えた。試験の前日には、就寝前のわずかな時間に布団の中で教科書を開いた。 そして朝は、午前2時に起きて仕事を始める。人の糞尿を腐熟させて肥料にしたものを汲み取って、畑にまく作業をしてから、学校へ向かった。洗濯ももちろん松尾さんの仕事だ。 「手が痛かったですよ。特に冬ですね。もう、血がさーさー流れよりました。あかぎれができて、節々がぱりぱり割れるんですよ。洗濯や畑仕事で、水を使いますからね。私の手を見て母は泣いていました」 そう言うと、松尾さんは目元を真っ赤にして口元を押さえた。お母さんはなんと声をかけてくれましたか、と問いかけたが、胸が詰まって答えられないようだった。 松尾さん自身も、体調を崩しながらの家事、看病だった。重い貧血症状が引き続き出ていたのだ。 「だけど、大変だと思ったことはないですよ。自然と自分に降りかかってきたことだから……当たり前でしたからね、当時は」