会社は公器...松下幸之助が“都心の人口集中”を予測して下した決断
一代で世界的企業を築き上げ、"経営の神様"と呼ばれた松下幸之助だが、成功の陰には数々の感動的なエピソードがあった――。「安く買ってはいけない」「松下電器というのは社会の公器や」...。幸之助が経営者として大切にしていたこととは? 4つのエピソードを紹介する。 【写真】整列する社員に声を掛ける、1968年の松下幸之助(当時73歳) ※本稿は、PHP理念経営研究センター編著「松下幸之助 感動のエピソード集」(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
安く買ってはいけない
松下電器がソケットはつくっていたが、まだその材料であるベークライトをつくっていなかったころのことである。松下電器としては、ベークライト工場がほしいと常々考えていた。 そんなあるとき、そのどちらもつくっている電器会社がゆきづまり、その経営を引き受けてくれないかという話が、当の電器会社から松下電器に持ち込まれた。松下電器としては好都合であった。かねがねほしいと思っていたベークライト工場が、向こうから飛び込んできたのである。さっそく買収することを決定し、具体的な交渉に入った。 そのときに幸之助が指示したことは、「安く買ってはいけない」ということだった。相手は倒産しかかっており、弱い立場にある。相当安く買いたたいたとしても、相手も世間も納得するであろう。 しかし、幸之助はこう考えた。 "松下電器がベークライト工場をつくるのであれば、みずからその研究をし、開発をしなければならない。そうなると、多くの資金が必要になる。ところが幸いにして、ベークライト工場を買収してほしいという話が持ち込まれた。その工場は松下電器が必要とする、いわば値打ちのあるものだ。その値打ちで買おう" その考えのとおり、幸之助はその工場を値切ることをせず、相場で買った。
重役に会わなかった話
松下電器が多少大きくなった昭和初期のことである。新しく事業を拡張するのに200万円必要になった。当時では相当の金である。それまでにも10万、20万という金を銀行から借りていたが、そのときも同様に幸之助は、銀行の支店長を訪ね、その話をした。 「それは結構です。松下さんの今までを見ていると、ほとんど言われたことと違いがない。だから今度も、私はお貸ししたいと思うのですが、しかし、金額が金額です。で、この際、私が紹介しますから一度うちの重役に会って話をしてくださいませんか」 まだ規模の小さい町工場の経営者にとって、銀行の重役に紹介してもらえるということは名誉なことでもあった。しかし、幸之助は丁重にそれを辞退した。 「なぜですか」 「重役さんにご紹介いただくのはまことに光栄なことですが、お会いしたとしてもあなたに申しあげたことと同じことしかお話しできませんので......。重役さんにはあなたからお伝えください」 そう言われて、支店長は困ったが、最後には、 「それでは私から話してみましょう」 ということになった。 そして幸之助は、結局、申し込んだ200万円を借りることができたのである。なぜ、重役に会わなかったのか。その理由を幸之助は、著書『経済談義』の中でこう書いている。 「これは自分自身の仕事をしているのではない、私はそう考えた。社会のためにやっている仕事である。つまり世の中が進歩発展してきて、こういう新しい仕事が必要になり、求められるようになってきた。その求めに応じて自分はやっているのだ。だから、そのために正当なというか必要な努力は大いにやるし、またやらなくてはならない。 しかし、正当以上の、いわば卑屈な努力までする必要はない。そういう考えをハラの底に持っていたのである。自分はこの仕事が社会に必要だと思い、また自分にはこれをやっていける力もあると思うけれども、銀行が貸してくれないのなら、それをやめて、やらないだけだ、そういった気持ちでいた。 だからせっかくの支店長の好意ではあったが『同じことをいうのに重役の人に会う必要はありません。それでよかったら貸してください。貸していただけなければ仕事をのばすだけですからけっこうです』といったわけである」 この話は、幸之助があるとき、「いちばん素直な心だったと思うことは?」と問われて披露したエピソードでもある。