日本「バブル崩壊」の裏に隠された大蔵省と日銀の失態…“常識では考えられない”政策の末路【森永卓郎の見解】
バブル崩壊…10年間で“5分の1”に暴落した地価
市場最高値となった1989年12月末の日経平均株価は3万8,915円だった。以降、1年ごとに年末の株価を見ると、1990年は2万3,848円、1991年は2万2,983円、1992年は1万6,924円と、株価は「つるべ落とし」で下がっていった。誰の目にもバブル崩壊は明らかだった。 本来ならバブル崩壊を財政金融政策で緩和しなければならない。ところが、ここでじつに不思議なことが起きたのだ。 不動産向け融資の伸び率を金融機関の総貸出の伸び率以下に抑えるように大蔵省が指導する「総量規制」を導入したのは1990年3月27日で、バブルが崩壊してから3カ月も経ってからだった。 しかもこの総量規制が解除されたのは翌1991年の12月だった。バブルを抑制するために導入するのならともかく、バブル崩壊後にこんな指導をしたら、バブル崩壊後の谷を深くするに決まっている。実際、不動産の価格、とくに大都市商業地の地価は、バブル解消を通り越して、はるか深い谷(逆バブル)に沈み込んでいった。 逆噴射をしたのは日銀も同じだ。バブル崩壊後の1990年3月20日、日銀は公定歩合をそれまでの4.25%から5.25%に引き上げている。さらに1990年8月30日に公定歩合を6.0%まで引き上げた。 さすがに公定歩合は6.0%をピークに1991年7月1日に5.5%に引き下げ、その後1995年9月8日に0.5%となるまで、段階的に引き下げている。ただ、バブル崩壊後1年以上にわたって逆噴射を続けたことは事実だ。 それどころか、資金供給の面ではもっと恐ろしいことが起きている。日銀が自由にコントロールできる資金供給量をマネタリーベース(現金+日銀当座預金)と呼ぶ。 そのマネタリーベースの対前年伸び率を各年の12月の数字で見ていくと、1989年が12.6%だったのに対して、1990年は6.6%、1991年は▲2.8%、1992年は1.4%、1993年は3.7%、1994年は4.0%、1995年は6.1%となっている。 つまり、バブル崩壊の後、資金供給という面からいうと、日銀は少なくとも5年にわたって金融引き締めに走ったことになる。 なぜ、大蔵省と日銀は、常識では考えられない引き締めをバブル崩壊後も続けたのか。その理由は、正直言って、よくわからない。財務省と日銀が罹患している「引き締め病」のためか、アメリカからの圧力に屈したのか、明確な証拠はどこにもない。 ただ、はっきりしていることは、「市街地価格指数」で見ると、6大都市圏の商業地の地価は、1990年から2000年にかけての10年間で、5分の1に大暴落した。そして、戦後の日本経済を支えてきた「株式の持ち合い」と「不動産担保金融」が崩壊に向かったのだ。 森永 卓郎 経済アナリスト 獨協大学経済学部 教授
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