球界初の京大出身投手、ロッテ・田中の現在地
痛感したのはボール半個のコントロールミスを許してくれないプロのレベルだ。田中はコントロールをつけるために映像を分析し、フォームをチェック、参考になるようなピッチング映像を山ほど見ながら再調整をスタートさせる。だが、ただでさえ百戦錬磨のプロの世界では見劣りする肉体には疲労が蓄積して限界に近づいていた。 「ファームに帰ってきて、あれっとはなったんです。確かに体力的な部分もありました。1月から5月の頭までぶっとおしでやって、そういうのも大学と違い初めての経験でしたから」 京大時代とは比べ物にならない、プロの練習量と質に、試合数、そこに連日メディアに注目され、1軍切符を巡るサバイバルを勝ち抜くために結果を残し続けねばならないという緊張が加わる。肉体は悲鳴を上げていたが、それに気づかず、技術を追い求めようと気ばかりが焦った。「最初はコントロールがつかない。そっちに意識をとられて、そのうち球がいかなくなった。悪い方向にどんどん向かっていったんです」。 制球力を付けるどころか、本来のフォームを見失い、京大時代に最速149キロを記録したストレートは、せいぜい140キロしか出なくなった。「ボールが死んでいたんです」という。 スランプを脱出しようと必死で理論を詰め込んで頭脳までパンクした。 「上ばかりを見て、考えすぎたんです。プロは、学生時代に知らない世界でした。上にはこんなレベルの野球があるのかということを知った。そこまで自分も行かなければと。だから、もっともっとと思った。より細かいコントロールがいると思ったんです。身体も疲れ、動けていないのに理想だけを追ったんです」 田中は壊れた。 以降、田中の名前は1軍でアナウンスされることはなかった。1軍どころか予定されていた7月のジュニアオールスターの先発が不運にも雨で流れてからは、2軍戦でもマウンドに立っていない。 「あのとき、立てていれば、自信を回復して何かが変わったかもしれませんが」 暗闇から抜け出す最後のきっかけも失い、田中は、もうまともにマウンドからストライクを投げることさえできなくなっていた。 「もっとこうしたい。それが強すぎたんです。理想を追いすぎ、吸収しすぎた。野球が楽しくなかったですね。そりゃあ、何回も落ち込みましたよ。この1年、マジでいいこと何もなかったですから」 秋風が吹き、シーズンの終わりが近づくと、ついこの前まで一緒に練習してきた人たちが周囲からいなくなる。戦力外通告という名のプロ野球の厳しい現実……千葉の鴨川で行われていた秋季キャンプ中に行った契約更改では、リアルな現実を身を持って実感させられる。 提示されたのは、推定1500万円からの160万円ダウンの数字。 「最悪やな。ほんまに下がるねんなと。周りでは戦力外もありました。しみじみと、プロの世界は厳しいなと感じました」 それでも、一流商社の内定を蹴ってまで、プロ野球の道を選んだことを後悔したことだけは、一度としてなかった。