衆議院の「冒頭解散」過去3回を振り返る 坂東太郎のよく分かる時事用語
(3)1996年「小選挙区解散」
1993(平成5)年の総選挙で自民党が過半数割れ。長らく野党第一党の座に君臨した日本社会党(社会党)も大幅に議席を減らす中、この頃生まれた新党が躍進しました。新生党(創設は93年)、日本新党(同92年)、新党さきがけ(同93年)など。新生党を事実上率いていた小沢一郎衆院議員が、持ち前の豪腕で非自民勢力をまとめ上げ日本新党代表の細川護煕(もりひろ)衆院議員を担いだ非自民連立内閣成立を果たし、自民党を野へ追い落としました。この内閣の下で、衆議院の選挙区がこれまでの中選挙区制から小選挙区比例代表並立制へ変更されます。 巻き返したい自民は94年、非自民勢力から離れた社会党と、あっと驚く連立構想へ動き出します。同じく新党さきがけも加え、社会党トップの村山富市衆院議員を首班とする「自社さ連立内閣」をつくり、政権を奪い返しました。自民と社会は1955年以来の宿敵。そこと組んだばかりか首相の座まで用意した執念の奪還劇だったのです。 ただ村山政権は崩壊過程にあった社会党を基盤としていて弱体。解散も打たないまま退陣して橋本龍太郎自民党総裁が96年1月に跡を襲いました。 この頃、非自民勢力も集合離散を繰り返しており、小沢氏が実質的に仕切る新進党(創設は94年)と、社民党(社会党から党名変更)やさきがけの多くを糾合した96年結党の民主党などに収れんされていきます。93年の敗北から名実ともに立ち直るべく、第1次橋本内閣が96年9月27日の通常国会冒頭で解散、小選挙区比例代表並立制下で初めての総選挙で勝負に出ました。自民は議席を伸ばし第2次橋本内閣が成立します。
なかなか開かれなかった臨時国会と解散権
今回の解散では臨時国召集を野党が求めていたのに安倍首相は先延ばしし、やっと開いたと思いきや冒頭解散とは何ごとかと非難する声があります。確かに憲法は衆参どちらかの総議員の4分の1以上が要求したら「召集を決定しなければならない」と定めていて、数の条件をクリアした野党が通常国会閉幕直後の6月下旬に要求しています。ただ憲法には「○○日以内に召集しなければならない」旨の規定がないため、実行しなくても許されてしまう現実があるのです。 解散を首相の「専権事項」とか「大権」と称する向きもあります。ただ憲法の隅々まで読んでも解散権がどこにあるのか書かれていません。そこで次のような論理構成が一般化しています。 まず69条で「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」と定めているので、どうやら内閣(行政府)が国会(立法府)と対立したら解散できるとします。その上で7条の「天皇の国事行為」に「衆議院を解散すること」があるわけです。