大河ドラマ『光る君へ』皇女を出産した中宮定子のその後とは? 一条天皇に愛され続けた波乱の生涯
大河ドラマ『光る君へ』では、主人公まひろ(演:吉高由里子)が父に従い越前の地で暮らす様子が描かれている。一方都では、長徳の変の後に出家した中宮定子が皇女を出産した。一条天皇(演:塩野瑛久)は最愛の后である定子と2人の間に生まれた待望の子に会いたいと切望するが、2人はもはや会うことが叶わない。今回は、出産後の定子と彼女を愛し続けた一条天皇のその後の物語をお届けする。 ■実家・中関白家の絶頂期から一転し孤独な出産を迎える 藤原道隆の娘定子が一条天皇に入内したのは、正暦元年(990)、定子15歳、一条天皇は11歳の時でした。父道隆はその後すぐに関白に上り(同じ年に祖父兼家は亡くなりましたが)、定子の将来は順風満帆に見えたことでしょう。以後、2人の仲睦まじい関係が続きました。『枕草子』が記すように、定子には母である高階貴子(本連載で採り上げました)ゆずりの漢籍の教養と、打てば響くような聡明さがあり、学問好きの一条天皇を魅了していたのです。定子のサロンは多くの男性貴族が出入りし、清少納言はまさにそのサロンの華でした。一条天皇の許に他の妃たちが上がるのは、入内から6年も後のことでした。 なぜ、新たな妃たちが一条天皇の許に上ったのでしょうか。そうです。ご存知のように、長徳の変により、定子の兄弟の伊周・隆家が失脚してしまったからです。長徳の変によって道長が覇権を得たのですが、実際のところ、伊周・隆家の自滅のようなもので、道長の陰謀ではないと考えられています。むしろ伊周・隆家を厳しく処断したのは一条天皇であったと言われています。そうした混乱の最中、定子は出家しました。 このことは一条天皇の後宮に風穴を空けて、定子の独占状態は終わったのです。しかし、一条天皇の定子への愛情は変わりませんでした。 今まで2人の間に子はいなかったのですが、長徳2年(997)定子は第1皇女脩子(しゅうし/修子とも)内親王を出産したのです。その後、定子は再び一条天皇に召されて、職(しき)の御曹司(みぞうし)という、清涼殿から程遠い、中宮職(中宮に奉仕する役所)の中の、殺風景な場所を与えられたのでした。定子は後宮の殿舎に戻ることは許されなかったのです。伊周・隆家は許されて都へ戻っていましたが、すでに往年の権勢もなく、定子がひとたび出家をして還俗した身であることも周囲から白い眼で見られる要因でした。帝としても、周囲をはばかり、それ以上の扱いはできなかったのでしょう。 しかし一条天皇の寵愛は衰えることはありませんでした。長保元年(999)、定子は第1皇子敦康(あつやす)親王を生みました。一条天皇がその最期まで、皇位継承を望んでいたと言われる、英明で知られた皇子です。後に、この皇子が東宮に就くことを、実子がいたにもかかわらず、道長の娘、彰子も望みましたが(『栄花物語』)、道長の意向もあり、果たされませんでした。 『枕草子』「大進生昌(だいじんなりまさ)が家に」の段はこの出産のために、中宮職の三等官である平生昌の邸宅に下った定子の様子を描いています。定子は兄弟の邸宅に下って出産することができず、中流貴族の生昌の家で出産するほかなかったのです。しかし『枕草子』はそのような暗い影は微塵もなく、学者であり、お堅くて融通が利かず、変な物言いをする生昌をやりこめ、むしろそのような清少納言をとがめ、生昌の実直さを評価する、やさしい定子の姿が描かれています。そういえば、この段には定子が身重であることはまったく書かれていないのです。もちろんそのお産についても……。 その9年後、最高権力者道長の豪邸・土御門殿で、中宮彰子は待望の皇子を生みますが、そのことを詳細に書き留める、紫式部が書いた『紫式部日記』と、この大進生昌をめぐる段は鮮やかな対照をなしています。 敦康親王誕生の翌年(長保2年)、長保元年に12歳で入内していた彰子が女御から中宮となり、中宮であった定子が皇后となりました。それまで中宮と皇后は事実上同じものでしたが、定子を皇后に祭り上げることで、彰子に箔をつけ、定子の力を削ごうとする政治的な力が働いていたのです。その年の冬、第2皇女媄子(びし)内親王を生んだ直後に、定子は急逝しました。定子は26歳でした。 『栄花物語』「とりべ野」巻は、定子の辞世の歌や一条天皇の慟哭の歌などを伝えていますが、その悲劇については、別の機会に譲ることといたします。 <参考文献> 福家俊幸『紫式部 女房たちの宮廷生活』(平凡社新書)
福家俊幸