中国版無敵の人「献忠」の正体…中国で「日本人の子供」を狙う無差別殺人が起きる「日本嫌い」以外の理由
■無差別殺人を助長する「献忠」の実態とは 一方で、こうした政治的要因とはまったく異なる背景があることも無視できない。それは近年の中国において、必ずしも外国人だけをターゲットとしない無差別殺人・殺傷事件が発生していることだ。その多くは、人混みで刃物を振り回したり、自動車を群衆に突っ込ませたりするものだ。 中国国内の断片的な報道や海外華人メディアの記事、X(旧Twitter)などでの告発を総合すると、今年2月から10月までの9カ月間で20件もの無差別殺人・殺傷事件が起きた可能性がある(筆者調べ)。中国の人口が日本の10倍以上であることを差し引いても、事件が「多すぎる」のは明らかだ。 こうした犯罪は、中国語圏のネット空間では「献忠」と呼ばれている。これは中国史上の武将、張献忠の名前にちなんだネットスラングだ。張献忠は明代末期の1644年に四川省を支配した軍閥の将だったが、天下の形勢の不利を悟って捨て鉢になり、部下や四川住民の大虐殺を行った。この張献忠と同様に、人生に失望して無差別に人を殺(あや)める行為が「献忠」である。 献忠事件の背景にあるのは、ここ数年の中国社会を覆う強い閉塞感と景気の低迷だ。加えて、近年の中国では多重債務者の氏名や身分証番号が公開されていることの影響も大きい。多重債務者は高速鉄道や航空機の利用なども制限されるが、中国には自己破産制度がないため、いちど経済的に失敗した人は債務と社会的制裁に死ぬまで苦しみ続ける。2020年以来、ゼロコロナ政策下のロックダウンで自宅から出られないせいで会社が傾くなどして、やむをえず多重債務者になり、結果的に人生が「詰んだ」人が増えている。 中国では通常、無差別殺人事件の犯人は死刑になり、執行も短期間でなされる。「詰んだ」人々の中には、むしろ死刑相当の大それた事件をわざと起こして社会的な自殺を遂げようとする動きがあり、それが献忠の実態だ。 献忠の狙いは、か弱い子供や警戒心が薄い外国人に対してよく向けられる。日本人学校児童の襲撃事件は、反日事件として以外に、献忠事件としての側面も存在する。事実、日本側の報道によると、深圳の事件の容疑者は経営難に苦しむ零細自営業者で、日本人学校の子供を手にかければ話題になるので狙ったともいわれている。 深圳の事件後、パナソニックホールディングスは駐在員と帯同家族の一時帰国を認めたほか、各社は駐在員へ注意喚起している。近年の日中ビジネスの現場では、経済安全保障に対する意識の高まりや中国側国家安全機関による日本人ビジネスパーソンの拘束(※2)が原因で対中投資が冷え込んでいる。今回の事件は、日本企業に中国ビジネスのさらなる見直しを迫るものとなった。 ※2:中国はスパイ行為の取り締まり強化を目的として、2014年に「反スパイ法」を施行。NHKによると、これまでに少なくとも17人の日本人が中国の国家安全部門に拘束・逮捕されている。 国家安全部門による日本人の拘束は、基本的には中国共産党の高官と密接な関係を持っていたり、日本側の公安機関と協力したりしている人物が対象になっているとみられる。したがって、一般の駐在員の大半は拘束を深刻に心配する必要はない。一方で、「詰んだ」人による無差別殺人は不安だ。9月30日に上海のスーパーマーケットで男が3人を刃物で殺害した事件や、11月11日に広東省珠海市で暴走車が群衆に突っ込んで35人を死亡させた事件のように、ごく普通の駐在員でも日常生活の中で巻き込まれる可能性がある。 傷害事件が増えているとはいえ、中国の場合、交通事故に遭う危険のほうがずっと大きい。しかし、献忠事件の流行と、「日本人」という属性がヘイトクライムの対象にされやすい傾向が存在することは事実だ。中国特有のカントリーリスクだといえるだろう。 現在、中国各地の日本人コミュニティでは、外出時に子供と日本語で会話しないように気をつけるなど自衛策が講じられている。企業が中国市場からの完全撤退を決めるのは時期尚早だ。しかし、近年の中国はもはや、駐在員による家族の帯同には向かない国になっていることは間違いない。 ※本稿は、雑誌『プレジデント』(2024年12月13日号)の一部を再編集したものです。 ---------- 安田 峰俊(やすだ・みねとし) 紀実作家(ルポライター)、立命館大学人文科学研究所客員協力研究員 1982年生まれ、滋賀県出身。広島大学大学院文学研究科博士前期課程修了。著書『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』が第5回城山三郎賞と第50回大宅壮一ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。他の著作に『現代中国の秘密結社』(中公新書ラクレ)、『八九六四 完全版』、『恐竜大陸 中国』(ともに角川新書)、『みんなのユニバーサル文章術』(星海社新書)、『中国ぎらいのための中国史』(PHP新書)など。 ----------
紀実作家(ルポライター)、立命館大学人文科学研究所客員協力研究員 安田 峰俊