マンハッタンは本当にたった24ドルで売られたのか? 悪名高き歴史的大バーゲンの真相は
マンハッタンは本当に売られたのか
その「重大な出来事」が必ずしも売却を意味するとは限らない。オットー氏は、レナペ族やその他の先住民族がヨーロッパ式の財産所有を理解せず、土地に関する個人的な所有権を全く認識していなかった可能性が高いと指摘する。むしろ、自分たちの土地をオランダ人と共有するか、または貸し出すことに同意したつもりだった可能性があるという。 平和的な民族として評判だったレナペ族だが、決して「臆病ではなく弱かったわけでもない」と、歴史家のジーン・ソダーランド氏は書いている。そして、その振る舞いには常に、民族の独立への固い意志と、自らの貿易権を守ろうという願いが表れていた。 一方オランダ人は、土地を購入したものと信じ、母国からの入植者やアフリカからの奴隷、様々な国の商人、宗教弾圧によって故郷を逃れてきた人々とともに町の建設を始めた。ビーバー貿易も盛んになり、ニューネーデルラント全域でビーバーの毛皮が通貨として受け入れられるようになった。 1664年、ニューアムステルダムには1500人が住み、18の言語が話されていたと言われている。町の周囲には、奴隷労働による城壁が築かれた。その名残が、後にニューヨークの有名な「ウォール街」になった。
もう一つの歴史的取引
しかし、城壁では町を守れなかった。1664年8月、ニューアムステルダムは英国軍の攻撃を受けた。その1カ月後、ニューネーデルラント総督のピーター・ストイフェサントはこの多文化の植民地を明け渡し、植民地は「ニューヨーク」と改名された。 オランダと英国は、他の場所でも第二次英蘭戦争を繰り広げていた。1667年、オランダが南米のスリナムにある英国植民地に侵攻。同年、両国は条約を結び、ニューネーデルラントおよびニューヨークを、現在はスリナム共和国となっている南米の植民地や、ナツメグの産地であるインドネシアの小さなラン島などと正式に交換した。 一方、マンハッタンを先祖代々の土地とみなしていた人々は追い出され、戦争や条約、強制退去により、1860年代にはほとんどのレナペ族が現在のオクラホマ州に追いやられていた。現在、3つのレナペ族が米国連邦政府によって先住民として認められている。そのほかのレナペ族は、いまだに承認を受けるために闘い続けている。
文=Erin Blakemore/訳=荒井ハンナ