二十歳のとき、何をしていたか?/堀道広 二十歳になる1か月前、富山から夜行バスで東京へ向かった。それは、あの大事件の朝だった。
インドで悟りも開いた。そして再びの上京。
1年かけて準備した家出は、1日で終了。親にも気づかれなかった。でも堀さんの心境には変化があった。 「一回死んだと思って一生懸命生きるようになりました。学校もちゃんと卒業して、漆の訓練校に入ることにして」 堀さんは、マンガ家以外に漆職人としても活動している。ただ、漆は短大時代に教わった技術であって、ものすごく好きというわけではなかった。なんというか、就職したくなかったのだ。
「就職から逃げるために石川県輪島市の3年制の訓練校に行こうと思ったんです。人間国宝の先生が教えてくれるし、そんな人生もいいかと思って。入学試験は、作品を見せて『道具が使えるか判断する』という内容だったので、短大の先生に仕上げてもらいました。そうしたら受かってしまって」 社会に出るまで3年の猶予ができた堀さんは、授業をズル休みして旅に出るようになった。21歳で知り合いの寿司屋を訪ねて初のニューヨークへ。 「例の家出のあと、自分なりにやる気が出たと思ってたんです。でも、日本人宿には夢を持ってアメリカに来た若者がたくさんいた。音楽やりたいとかブロードウェーに立ちたいとか、同世代にこんなにきらきらした人がいるんだと衝撃を受けました。レベルが違う。やばいな、大変なことになってんなと思いました」 若さゆえの苛立ちや衝動がくすぶって、海外へと向かわせたのかもしれない。昆虫みたいだったあの頃と比べたら、大きな変化だ。翌年は、ずばり「悟りを開こうとして」3か月ほどインドを放浪した。
「夏ってバックパッカーがインドに溜まる時期らしくて。当時“沈没”って呼ばれていて、何をするでもなく、ただいるだけ。一日中寝て郵便局に行くだけの日とか、しょうもない時間の使い方をする」 堀さんもガンジス川で泳ぎ、落ちてる骨を拾い、適当な中華を食べてダラダラと過ごしたらしい。めちゃくちゃ楽しそうだけど、肝心の悟りのほうは? 「国境を越えてパキスタンに入って、もっと北まで行ってやろうと乗り合いバスに乗ったんですね。そこで車のドアを開け閉めする係の少年が、梨をおいしそうに食べてたんです。それを見たときに、ああ、梨がうまそうだなっていう気持ちは、どこにいたって同じだなと。日本で食べても、チベットで食べても、梨はおいしい。わざわざどこかへ行ってまで味わう感覚じゃないなと思って、それで帰ってきたんです。そういう悟り」 輪島に戻り、漆作家のもとでバイトに励んだ。このまま職人として一生を終えようと思っていたある日、「君は職人的な作業に適性がない」と宣告を受けた。 「アホだからこの仕事しかないと思っていたのに、それすら向いてないなんて。急に目的を失ってしまったんです」 そこでもう一回、スウィングのときがやってくる。大好きな『ガロ』にマンガを描いて送ったら、見事入選したのだ。しかし、数か月後に出版社が倒産して『ガロ』は廃刊に。それでも出版社に持ち込みを続けていたら、再びマンガが入賞して、堀さんは2度目の上京を試みた。 「巣鴨に住んで、地蔵通り商店街でおばあちゃんに服を売るキャッチみたいなバイトをしてました。『冷房避けにいかがですか?』って殺し文句を駆使して、夏でも長袖のブラウスを売ってました」 家賃2万円の花屋の空き店舗で暮らしたときは、給湯器にホースを繋いで土間シャワーを実行。道路に排水し、女子高生に「変な泡が流れてる~」と言われてしまう。もう、堀さんはほとんどマンガだ。 「もしかしたら心のどこかで望んでるのかもしれないですね。やっぱり19歳までが昆虫過ぎたので、スウィングしたことでなんでも楽しもうっていうマインドに変わったような気がします。めいっぱい生きようと、目の前のことに一生懸命になった。嫌いだったレバ刺しもしいたけも、反動でめちゃくちゃ大好きになりました」
プロフィール
堀道広|1975年、富山県生まれ。マンガ家、漆職人。石川県立輪島漆芸技術研修所卒業。1998年に『月刊漫画ガロ』でデビュー。2003年第5回アックス漫画新人賞佳作。漆職人としても活動する。著書に『おれは短大出』(青林工藝舎)、『うるしと漫画とワタシ』(駒草出版)。 photo: Takeshi Abe, text: Neo Iida(2021年11月 895号初出)
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