本当は「昭和」ではなく「光文」だったのに「新聞にスクープされたから急遽差し替えた」という俗説が「誤りである」と言えるワケ
草案に残された考案者選定の内情
国立公文書館は、『昭和大礼記録』の草案も保管している。改元について記されているのは『昭和大礼記録草案』第一冊の二止。「大礼使」「内閣」「宮内省」と赤く印刷された罫紙に毛筆されている。製本された完成版は第三章の冒頭に「吉田増蔵稿」と記されるが、草案の対応する箇所では「吉田増蔵述」となっている。「述」の上に×印が書かれ、脇に「稿」とあり、さらにその横に横棒が引かれ「考」とも記されている。結局、完成版で「稿」が採用されたが、口述を基に作成されたようだ。 また草案では、「第三章 参考 一 元号建定に関する沿革概要」の最後に、「第六 勘進者の選定」という項目が続く。「選定」の右横に「内命」と書かれて修正されている。そして、この項目の冒頭は朱筆で縦線が引かれた上に、ページの上から別の原稿用紙がのり付けされ、隠されている。完成版で削除されたのだ。 だが、のり付けされているのは上部だけなので、上に載った原稿用紙をめくると隠された部分を読むことができる。次のページも同様に隠されているが、原稿用紙をめくると、用紙いっぱいに朱筆で「×」マークがある。その下には次のように黒字で毛筆されていた。 第六 勘進者の選定 大正度の元号建定に関しては。内閣及び宮内省中より元号勘進者を指命し勘進案を進めしめしも。昭和度の改元に際しては。別に元号勘進者の指命なり。但宮内省に於ては図書寮編修官吉田増蔵が当時宮内大臣官房の事務を兼ね。制誥起草の任に当れるを以て一木宮内大臣は之に勘進を内命せるなり。則ち大正度の改元は大に明治度と其の事態を異にし。昭和度の改元は大正度と亦た大に其の事情を異にせり。以て元号の勘進及変遷を観るべきなり。 大正改元は内閣と宮内省の専門家に考案を指示したのに対し、昭和改元は別だという。宮内省において一木宮内大臣が吉田に指示をしただけだったというのだ。確かに、『昭和大礼記録』の改元部分冒頭で「内意を授け」たと記されるのは、吉田だけだ。若槻首相が内閣側の国府に指示したのは「万一の場合に際し」てで、二人の扱いに軽重が見られる。始めから吉田が本命だったという書きぶりだ。 指名されたのは、「宮内省に於ては図書寮編修官吉田増蔵が当時宮内大臣官房の事務を兼ね。制誥起草の任に当れる」からだという。「制誥」とは、詔勅など天子の布告する文のことだ。股野琢も鷗外も、詔書や皇室に関する文書の作成、添削を担っていた。草案に書かれた理由の通りなら、もし鷗外が存命していれば考案の指名を受けていたことになる。鷗外と親交があった一木宮内大臣は、鷗外が『元号考』の編纂に取り組んでいたことを把握していたはずだから、なおさらだ。 明治改元と大正改元もまた「事態を異にし」ている。明治改元は、文章博士家と呼ばれた公家の菅原家などが提案し、その中から天皇がくじで選んだ。文章博士家が考案するのは江戸時代以前の先例通りだが、天皇がくじで選んだのはこの時が唯一だ。一方、大正改元は登極令という法令に基づき、近代国家として初めて行われた改元だった。 昭和改元は、大正改元の手続きを基本的に踏襲している。しかし、急ごしらえの大正改元と用意周到の昭和改元では、「事情を異にせり」と言える。急遽内閣と宮内省の複数の専門家に指示した大正改元と異なり、昭和改元は『元号考』の編纂を鷗外から引き継いだ吉田を本命として事前に準備を進めていた。だが、草案のこの部分は完成版で採用されなかった。理由は不明だ。 ◆略歴◆ 野口武則(のぐち・たけのり) 新聞記者。1976年埼玉県生まれ。中央大学法学部卒。2000年毎日新聞社に入社し、秋田支局、政治部、大阪社会部を経て、令和の代替わりで各部横断の取材班キャップ。20年3月末まで政治部官邸キャップを務めた後、政治部副部長、論説委員。小泉、野田、第2次安倍政権で官邸の皇室問題を担当し、令和改元の約7年半前から元号取材に取り組み、舞台裏を最も深く知る記者の一人。森鷗外記念会会員でもあり、公文書を基に宮内官僚としての森鷗外の公務について独自の研究を続けている。著書に『元号戦記 近代日本、改元の深層』(角川新書)。共著に『靖国戦後秘史 A級戦犯を合祀した男』(角川ソフィア文庫)、『令和 改元の舞台裏』(毎日新聞出版)がある。
野口 武則(毎日新聞政治部デスク)