本当は「昭和」ではなく「光文」だったのに「新聞にスクープされたから急遽差し替えた」という俗説が「誤りである」と言えるワケ
吉田執筆部分に重なる鷗外の書簡
次に『昭和大礼記録』で石渡論文に紹介されていない「第三章 参考」の部分を見てみよう。「一 元号建定に関する沿革概要」という最初の項目の直後に、「図書寮編修官 吉田増蔵稿」と記される。以下は吉田自らが執筆した部分となる。 「第一 改元の度数」では、日本最初の元号とされる大化からの歴史が簡略に記され、明治になって「一世一元を定制とせられたり」としている。「第二 勘進及難陳」では、江戸時代以前の公家による元号選定議論を「拘忌の妄説大に行はれ。遂に元号として勘進せる文字の点画に拠り。正は一にして止まるを以て不祥なりと謂ふ如き」と紹介している。鷗外が賀古宛書簡で「御幣をかつぐには及ばねど、支那にては大いに正の字を『一而止』と申候」と指摘したことだ。 「第三 勘進の標準」では、中国で使用済みの元号が平安時代以降に日本で使用されたことについて「漢土学問の影響を被るの甚しき。外国崇拝の風未だ脱せず」と批判した。大正改元時に、北方民族の拓跋氏が建てた北魏の元号「天興」が退けられた例を挙げ、「斯かる僭偽の国、末季の世に於ける元号の文字は之を避くること古来の慣例なりと断せるは。皆以て新時代に於ける元号勘進の標準とすべきなり」とした。 そして「第四 元号の重複」では、明治について「南詔に於ける段素英〔十世紀ごろの大理国の王〕の用ひし年号たりしなり」、大正についても「安南に於ける莫方瀛〔十六世紀ベトナムの莫朝二代目の莫登瀛〕の用ひし年号たりしなり」と、中国周辺の王朝で使用済みだと明記した。 鷗外が賀古宛書簡で「明治は支那の大理と云ふ国の年号にあり(中略)大正は安南人の立てた越といふ国の年号にあり(中略)不調べの至と存候」と記した指摘を、公的記録として残したのだ。安南で使用済みだった点は大正改元時には黙認されたが、昭和改元時は避けるべきだと明確にされた。
「未だ曽て見ざる元号」
吉田の指摘は続く。「中外〔国内外〕の元号を彙集せる成書なしと雖、我が国に在りては元号考。支那に在りては南詔安南を併せて紀元編及び亜欧紀元韻府に徴し之を知るを得べし」。「中外」の元号について分類して一覧できるように集めた書物はないが、我が国の元号については『元号考』を参照すれば知ることができるという意味だ。 『元号考』は単なる考証のためではなく、新元号作成に不可欠な実務の一環だったことが公的記録としてはっきりした。鷗外が吉田に後事を託した一本の線は明確になった。 ただし、生前の構想では中国や周辺国も含めた過去の元号全てを網羅しようとしたようだ。鷗外の死で作業の縮小を余儀なくされ、吉田が完成させたのは日本の事例のみにとどまった。吉田は足らない部分を補うため、中国で編纂された『紀元編』と『欧亜紀元合表』付録「欧亜紀元韻府」を用い、中国や周辺国の先例を調べて昭和改元に臨んだと推察される(水上、2023年)。 完璧な元号を作るには、過去の元号を調べるだけでは不完全だ。大正改元で首相の西園寺が次々と退けた元号案には、中国での宮殿名や人名もあった。こうした先例について、「咄嗟の間に之を知ること極めて難し」というのが実情だ。「然れば将来内閣と宮内省には右に関する完全なる成語彙纂を作成備置するの要あるなり」と吉田は本書で提案している。さもなければ、「大正改元度に於ける西園寺内閣総理大臣の論難に遭遇せる如き覆轍を踏むに至るべし」と。大正改元の失敗を繰り返してはならないと、後世に警鐘を鳴らしている。 内閣と宮内省に「完全なる成語彙纂」(あらゆる熟語を整理した語彙集のようなもの)を作る必要性を指摘したくだりは、鷗外の賀古宛書簡を継承している。宮内省が昭憲皇太后との追号を贈ったのは誤りだとして、鷗外は「根本的に弊を除くには帝室制度審議会に諮詢機関(中略)を置く外なしと思考す」「審議会には礼や典故を知るもの一人もなし」と不満を漏らしている。 吉田は章末の「第五 元号の詮考」で、「昭和」という元号について自ら解説した。 前述せる所に深く鑑み。専ら前轍を踏まざるを務めたる結果。昭和の字面は平安朝以来の元秘抄、元秘別録、年号勘文等に挙げられたる数千に上る元号中に未だ曾て見ざる所にして朝鮮。支那。南詔。安南等の元号中固より亦た曾て無き所なり 「昭和」は国外を含め過去に使用されていないだけでなく、我が国では案としても上ったことがないという。鷗外の遺志を引き継ぎ、大正改元の失敗を教訓に完璧な元号を周到に用意した自負がうかがえる。