本当は「昭和」ではなく「光文」だったのに「新聞にスクープされたから急遽差し替えた」という俗説が「誤りである」と言えるワケ
「光文事件」の真相
1926(大正15)年12月25日午前1時25分、体調悪化で公務から退いていた大正天皇が逝去する。その日の朝に東京日日新聞が「元号は『光文』 枢密院に御ご諮詢」と号外でいち早く報じた。ところが、その後に政府が発表した新元号は「昭和」だった。 誤報の責任を取って編集幹部が辞任する事態となり、「光文事件」として広く知られている。この事件は、決定済だった「光文」を事前にスクープされたため、政府が急ぎ「昭和」に差し替えたという説が長年語られてきた。実際に『昭和大礼記録』を見ると、光文は確かに案の一つとして検討されている。 大礼記録は公的記録であるが、事後に作成されるため、政府に都合が良く編纂されている可能性も否定できない。『大正大礼記録』が稿本と完成版の間で複数の修正が加えられたように、潤色は明らかだ。ここに俗説が入り込む余地がある。 吉田が一木宮内大臣から新元号考案の指示をいつ受け、どの時期に案が絞られたかについては、『昭和大礼記録』に記載がないものの、吉田が史料を残していた。 公益財団法人・無窮会の機関誌「東洋文化」復刊第64号(1990年3月)に掲載された大谷光男「資料紹介・吉田増蔵氏が係わった新元号『昭和』について」によると、「大正十五年二月 日提出」(筆者注:日付の箇所空欄)という日付の紙に、昭和も含む60以上の元号案が記されているという。さらに「大正十五年七月」の元号案では、半数の削除と4案の追加があり、31に絞られている。 また、「(大正十五年九月)三日朝に大臣へ提出した元号案」としては、第一案に含まれる「元安」「元化」など7案も残されている。大正天皇が逝去する10カ月以上前の1926年2月以前の段階で、吉田が次の元号考案の指示を受けていたことは確かだ。そして、7月以降に「先ず三十余の元号を選出し」て一木に提出し、9月3日に追加の提案をしたとみられる。 では、「昭和」を含む最終3案はいつ絞られたのか。国立国会図書館が蔵する「倉富勇三郎関係文書」の日記に、経緯が記されていた。倉富は昭和改元時、元号の諮詢を受ける枢密院の議長を務めた。 刊行済みの『倉富日記』はまだ第3巻の大正13年分までしかない。だが、国立国会図書館のホームページに掲載された「元号伝説――ポスト『大正』は『光文』か?」というコラムで経緯が紹介されている。 大正天皇逝去の2週間ほど前の1926年12月8日、倉富は一木宮内大臣と会談した。その際に一木から、吉田に命じて3案を選んでいること、第一案が「昭和」であることを聞いていた。「光文」は入っていなかった。さらに一木は、元老の西園寺と牧野内大臣も「大概第一が宜しからん」との考えだと倉富に伝えている。 『倉富日記』の記述は『昭和大礼記録』の内容と一致しており、この段階で政権中枢が「昭和」を本命として固めていたことが分かる。スクープされたために急遽差し替えたという俗説は、当時の政府や政治家が残した史料によって明確に否定された。